野良馬ヒンヒン

思いつきを記録しています。下らぬものです。

捨てられない。捨てる意気地がない。

うちの親族の一人は物を捨てられない。

「もったいない精神だ」という。

 

捨てずにとっておいたものも雨風にあたる

半分屋外の庇の下に積み上げておいて

半ば朽ち果てるまで置いておく。

 

そこまで傷ませると、もう捨てるしかない。

そうすれば判断が楽。

ここまで取っておいたのだからいいだろうと、寂しさもなく心理的に負担もない。

 

言い換えれば、ただ朽ちるのを待っている。

「もったいない精神」とはだいぶ違う。

 

物を捨てるのはストレスが大きい。

物を捨てる判断・決断の難しさ。

場合によっては別れの寂しさ。

 

そういうものから逃げているだけ。

捨てる意気地がない。

 

物を捨てるというのは、そういう心理的負担や責任を引き受けること。

できないのは、判断がつかないだけじゃなく逃げている部分があると思う。

 

しかしかつて、大ブームの断捨離。

あれはあれで依存症的に見える。

 

 

チッソの固着という大発明。

今年は出来そうにないけど、去年おととしと二年間、家庭菜園をやってみた。

楽しかった。

その時、植物の三大栄養素というものを覚えた。

リン・カリウムチッソ

 

リンは花や実を育て、

カリウムは根や茎を育て、

チッソは葉を育てる。

 

この三つのバランスは欠かせないものらしい。

 

またリンやカリウムは鉱物資源から取り出すことはできるけど、チッソは本来入手が難しかった。

空気の中に気体としての窒素はいくらでもある。八割くらいらしい。

 

しかし気体のままでは、畑に撒けない。

液体や固体にしないといけない。

これが難しい。

 

まずは人間や動物が呼気として吸った空気の中の窒素を体の中で、排泄物として外に出す。これが肥えとなる。だから昔はどこでも家畜を飼い、人糞も畜糞も大事にした。

 

それ以外にはマメ科の植物の根にできる根粒という粒々から畑の中に排出される。だから輪作の中に豆類を混ぜる。

 

しかしこれだけでは足りない。

 

糞肥料だけでは、人口に対し必要な作物を育てる窒素の絶対量がたりない。豆類もいいのだけど、連作に弱いのでやっぱり足りない。

 

ということで人類は長いこと、慢性的な窒素不足だったらしい。だから必ず地球上で誰かが飢えていた。空気中にはいくらでもあるのに。

 

だから約百年くらい前にイギリスの科学者が見つけた方法で、人工的に空気中の窒素を固着できるようになったことは、大発明だった。化学肥料の誕生だ。これで飢えを無くせる。人の命を救うものすごい技術だ。

 

しかしながら、窒素というのは火薬の原料でもあった。なんとこれにより、大量の火薬が生産できるようになり、戦争を大規模化させた。世界大戦の始まりだ。飢えから解放されても、沢山の人が戦争でなくなった。悪魔の発明でもあった。

 

火薬も作れる、食料も増産できるとあれば、各国が国策事業として窒素製造に乗り出した。日本もそうだったのだろう。

 

しかし窒素の固着というのは、空気との触媒に金属を使う。例えば水銀。その使用した後の排水銀が垂れ流されたのが、水俣である。

 

この水俣病を起こした日本チッソ日本興業銀行から、被害対応のため送り込まれた社長を江頭豊という。

 

様々な評が伝わっている。主に悪評である。真偽は分からないものも多いと思われるが、検索すれば残っている評判は良く分かる。またこの人の孫娘は小和田雅子さんという。

 

この先は、藤原新也の「黄泉の犬」に、あるひとつの説がまとめられているらしい。まだ未読。

 

 

ニュースの発端を知りたい(文科省天下り・森友学園問題)

文科省天下り問題と森友学園問題がニュースとなった発端は、どこからだろう。

 

どこかの報道局が調査報道したのが最初だろうか。

それともどこかしらのリークなどだったか。

 

もしかしたら記憶違いかもしれないが、たしか森友学園の方は関西の報道記者が、発表された国有地売買の官報を見て、一か所だけ詳細不明なことに疑念を持ったのが発端という話を、ラジオのニュース解説で聞いた気がする。辛坊治郎だったかなー。でもネット上で見つからない。

 

また一般にこういったニュースの発端というものは、発表や記録をされているのかな。一覧を見てみると面白そう。結構重要だと思うのだけど、不思議。

 

情報源の保護や秘匿の意味で明かされていないのかな。

 

ザ・コレクターズの武道館コンサートいってきました。

行けるか行けないか、行くべきか否か。

 

平日夜の武道館公演。

 

コレクターズデビュー30年にして初めての武道館。

 

ポッドキャストではチケット売行きが…と言う話が。

 

これは参戦したいが、仕事がキビシイ。 

 

 

 

一度はチケットを予約したものの、やっぱり無理かとあきらめて、受け取りキャンセル。

 

しかし当日の今日、無理矢理やりくりすれば可能かもしれないという偶然が重なる。

 

…決心を決めて、仕事をなんとか繰り上げダッシュ。

 

開演10分前に武道館前。

 

なんと当日券に20人ほど並んでいる!  待っていると後ろにも20人近く!

 

やはり平日なので当日決心の人も多いのだろう。

 

SEの鳴ってる中、滑り込み。一曲目に間に合った。三階ほぼ最後列。

 

でも見晴らしいいし、自由度が高く席移動もできる。良席。

 

 

 

先ず愛ある世界から始まる怒涛の4曲でMC。

 

加藤さんによるとあと7枚でソールドアウトだったらしい! 当日券は150枚。

 

惜しいと思うけど、チケットが売り切れで買えなくて残念な思いをした人は

ギリギリいなかったわけだから、良いのかも…。

 

 

 

名曲連発で最高の演奏、特にギターソロがワイルドでカッコ良かった。

 

武道館は音が悪いと聞いていたけどそんなことなかった。

 

特にギターの音抜けは最高。すごく良く聞こえた。

 

レーザーや照明も素晴らしく、カッコ良かった。

 

 

 

実は三年前から相次いだメンバー交代が、自分の中で尾を引いていたけど、

 

新しいリズム隊、特にドラムの鋭さや疾走感はバンドをもう一回り大きくしたように思えた。

 

以前のグルーヴィーなベースとドラムより、今のバックだと初期の強めのビートの曲が引き立っていた。

 

そのせいか、初期の名曲と最近の曲が多かったよう。中期はちょっと少なめ。

 

中期好きとしては、ちょっと寂しいけど、経緯があるから仕方ない。

 

 

 

 

初期も中期も、それぞれに音楽的なピークがあったと思う。 

 

もしかしたらフロント二人は、今のこのメンバーでできる傑作を狙っているのかも。

 

選曲と演奏ぶりから勝手にそんなこと思った。

 

でもその割にメンバー紹介が雑で、素っ気なかった。

 

気のせいか、もしくは振りようがなかったのかもしれないけど。

 

 

 

 

今日は行って本当に良かった。

 

音楽って素晴らしいなと久し振りに思ったし、

 

色々と捨てたもんじゃないかも、とも思えた。

 

 

 

 

メンバーの皆さん、スタッフさん、本当におめでとうございます。

 

アンドありがとう。

 

ドゥ・ザ・ダウンロード!

 

 

 

 

 

 

ララランド見た。印象的な部分を

ララランドをみました。以下印象的な部分。

 

女優を目指すエマ。同じ目標のルームメイトたちと「私を見つけてくれる誰か」を探して業界人のあつまる「パーティー」へ繰り出す。その会場にカウチがあり、中心にエマ、両脇に別の女性二人が座っている。両脇の二人はスッとしりぞきエマだけが残り、男性が隣に座ってささやきかけてくる。カウチは「キャスティングカウチ」と言っていわゆる枕営業を象徴してるのかも。エマはそういうパーティーに嫌気がさす。

 

途中まではひっきりなしに歌って踊るシーンが連続するのだが、途中からほとんどストレートプレイの映画になる。

 

エマの彼氏になるジャズピアニストのセブは、伝統的なジャズに凝っている。昔の友人のバンドに誘われるが、スタジオに行くとコンテンポラリーなポップバンド。セブは嗜好の違いに迷うが、友人に説得される。「お前はかつてのジャズジャイアンツを目指すが、彼らは(当時の音楽の流れの中での)革命者だったんだ。お前の弾いてる店のお客は皆高齢者ばかりだったじゃないか」つまり古い革命的な音楽を今奏でても意味があるのか、と問われました。今、革命的な音楽家でいるのと伝統を守るのは別だと。

 

またセブを誘った友人は黒人で、バンドのメンバーも皆黒人。今のアメリカの音楽界を見ても、ルーツミュージックを演奏しているのは白人ばかり。黒人音楽の伝統を守るのはなぜか白人。逆に映画界を描いた部分で黒人はほとんど出てこなかった。そしてセブの友人が結婚したのは白人女性。

 

エマは「夢追い人」が波紋を投げかけるのだ、と歌う。これがこの映画のテーマらしい。しかし、二人は最後に…

 

そして選ばなかったもう一つの人生。

 

lalalandとはロスアンゼルス=ハリウッドのことであって、そこで夢を追う人たちを描いたようです。つまり映画人のことですね。ただ成功に浮かれているのではなく、志を持っているのだ、という心根を描いたのでしょうか。意地悪に見ると業界人の自己弁護にもみえなくもないですが。これは「バードマン」での演劇界や批評家への当てつけ部分でも感じましたが。

 

本日のアカデミー作品賞の発表では、一旦ララランドと名前が挙がったものの、封筒取り違えというハプニングだったようです。結局作品賞は逃してしまいました。残念。

大阪の学園土地問題は、もしかして官僚側の抵抗かしら

文科省天下りのアレとか、

モリタクさんが予言してる「安倍さん消費税下げる説」

www.magazine9.jp

とか、官僚と政権の仲がもしかしたらややこしくなるのかなと思っていたら

el-bronco.hatenablog.com

大阪の学園の土地問題が起こりました。

もしかしたら、政権への牽制球ですかね。デッドボールかな。

自爆テロかな。

 

*

 

しかし官僚組織と戦えるような政治家はいるのだろうか。

人気で言えば、今の安倍さんはかなりの超安定長期政権である。

 

しかしそれはあくまで消去法、ということなので、

政権と官僚内で隠されていたスキャンダルがあったとして、

それがリークされるようになったらおしまいだと思う。

 

日本人はスキャンダル嫌いであって、それが無ければ安定政権。

そして政策は興味ないので、政治スキャンダルがないことが、ほぼ唯一の安定政権の条件。

 

では安倍さんが政権を逸すれば、野党がのびるかと言えば期待してる人はいないと思う。

自民党はズル賢いが、民進党は頭が弱い。

 

自民党内の対抗勢力が、安倍さんに代わるかもしれないが、

石破さんや、小池さんでも、まだ基盤が弱い感じ。

 

オザケンと村上春樹はファン層が重なってそう

昨日のオザケンは、結構よかった。

 

歌はセカンドのころのオザケン節という感じで悪くなかった。

(音程もむかしからあんな感じだったと思う)

 

もっとシンプルにルーツロックぽい感じでファーストに近づいてくれたらもっといいなーと思う。

 

ニュースゼロのインタビューでは「アメリカのブルースが好き」「自分は消費物だった」といった内容の発言があったらしく、見てないけど字面通りの意味だとすると、それにはすごく心動かされる気がする。

 

*

 

しかし自分も含め、なんでこんなにみんなでオザケンで大騒ぎするのだろう。

 

個人的には別にファースト以外はあんまり興味なかった。

 

でも、ある意味90年代のアイコンの一人だったなぁ。

 

なにか琴線に触れるものがあるのだ。

 

それにしても昨日のMSは一つに画面にX、オザケン、AKB、タモリ、というスゴイ幕の内弁当振りでした。

 

*

 

時を同じくして、村上春樹の新作も昨日。

 

なんとなく二人のファン層って重なってそう。

 

自分自身は、共に好きな作品はあるけど、ハマってはなかった、という感じだった。

 

*

 

なんとなくシンプルに洗練されていて、生活感なくて、インテリで、という、それこそそういう「消費」のされ方が似てるのかも。本人の意図とは別に、もしくは意図した以上に、ファンがそのように消費することを楽しんでいると、本人はズレを感じるかもしれないけど。それがオザケンの「消費物」発言につながったのかもしれないと思う。

 

いやもちろんそれだけではない、と思うのだけど、上手く捉えきれない。

ポストも遠い、公衆電話もない、宅配便もヤバい

ポストがない。

出先で郵便物を出そうとするとポストがない。

コンビニで出そうとローソンを探すが、セブンイレブンとファミマしかない。

ポスト難民。

 

公衆電話がない。

出先でスマホを忘れたことに気づいて公衆電話を探すが、コンビニにもない。

三つ回ってどこにもない。

ホームセンターならあるかと思ったがない。

駅まで1㎞戻って見つかった。

皆ケータイを持っているという前提の世の中になっていた。

電話難民。

 

ヤマトがやばい、という。

宅配便を使うのに規制ができるのかな。

 

電話も郵便も民営化で効率化の末、ポストや公衆電話が削減されたのか。

 

ヤマトも競争の末に勝ち取った宅配便の天下だったが、思わぬ厳しさだったようで、これからは利用者も、今までより不便が増えるかもしれない。

 

ロンドンは水道が民営化され、一社に寡占されたらしい。

すると水道料金は上がり、水量は減ったそうだ。

 

この先、日本もどうなるんでしょうか。

アマゾンは複数の運送業者と契約できないのかな

業者を分散したらよいのではないか。

 

大物や衣料品など壊れないものは佐川。

 

小さいものはゆうメール便

 

それ以外はヤマト。

 

とか

 

時間指定は有料でヤマト。

 

指定なしポストに入りそうなものは郵政。

 

時間指定なしや、遅くてもいいものは、別の会社

 

とか。

 

 

遅くていい便は無料とか、急ぎや時間指定は安くても有料とかにしてあげないと、たしかにパンクする。

 

年間ウン万円以上買っている人には安く家庭用宅配ボックスを売るとか、

 

それを買ってくれたら、何かがサービスになるとか、

 

時間指定なのに家にいない人が多い地域には、

 

街中にある自販機のようなコインロッカーを作ってそこを公共宅配ボックスにするとか。

 

そういうサービスに協力的な人にはポイント還元するとか。

 

 

加えて、インフラの保護という意味で法律の整備も。フランスみたいに。

 

孫ハラスメント

赤江珠緒さんがご懐妊で、ラジオリスナーとしては喜ばしく、しかし三月で卒業なのでちょっとさみしく、というTBSラジオの午後。

 

その赤江さんにはお母さんとの葛藤があったということ。

www.news-postseven.com

 

たしかにちょっと強引なほど、デリカシーなく、こういう話を連発するお年寄りいる。

 

家の親族にも、子供と顔を合わせるたびに「孫孫孫…」と催促してるという人がいた。高齢の人はどうしてもこらえ性がなくなる。だから思ったこと、したいことに歯止めがない人がいる。困ったものだ。

 

赤江さんは、おおらかでのんびりしてる雰囲気だけど、仕事面でも結構大変だったんだな。おめでとうございます!

クラウドファンディングにちょっと疑問

最近はクラウドファンディングの話題を良く耳にするようになり、ちょっとサイトを見てみることがある。

 

すると大体が、予算の内訳を書いていない。

 

面白そうだな、いくら集めるつもりかな、と見てみるとかなり大きな金額、例えば数百万円レベルでも、予算の内訳がない。

 

せっかく面白そう、意義がありそう、と興味を持っても、内訳のないような経済観念では、ちょっと心もとなく感じてしまう。説得力が薄くなってしまってもったいないように思う。

 

実際にはその通り行かなくても、お金を集める以上、一応の内容の目安を見せた方が集金力が上がりそうに思うのだけど。

リアリスト木久扇。「人生は売り上げだ」

TBSラジオ伊集院光の番組に林家木久扇が登場。面白かった。

 

中野工業高校の食品化学工業課程を卒業し森永乳業に入ったが、その後、色っぽい河童の漫画で人気だった清水崑のアシスタントになった。しかし声帯模写がうまいので芸人のほうが向いてるんじゃないか、と桂三木助のところに連れて行かれる。適当に話を合わせていると弟子入りすることになってしまう。

 

ラーメンが好きなので、楽屋で他の落語家からどこに行くと美味しいラーメンががあるのか聞かれる。イチイチ教えてるのが面倒なので「ラーメン新聞」をガリ版で作って楽屋で配ると、評判となる。読売新聞社からそれを記事に載せたいと言われ、読者からも反響があった。じゃあ甘党辛党みたいにラーメン党作ろうとなった。食品関係の高校だったから同級生が食品メーカーにおり、ラーメンを製造して販売することになった。

 

ラーメンブームも、タレントのサイドビジネスも、タイアップ商法も、グルメナビゲーターも、全ての先駆けなのだ。

 

落語というものは、本来下らなくって笑えるものなのに、明治以降、まじめになり過ぎて、しかめっ面で稽古してたりして、笑えない。だから自分は下らなくて笑えるものをやりたい。若手がやる勉強会とかも懐疑的。そもそも落語嫌い。

 

弟子に教える大事なことは「入金」。落語家たちは経済の話を全然しないけど、自分は「人生は売り上げだ」と思っている。今月よりも来月の売上が伸びることをグラフに着けておくと自分の活躍が分かる。落語を仕事としてやる以上、商品化しなくちゃいけないから、お金に換算しなきゃいけない。

 

「ばか」が売りの木久ちゃんなのに、すごく批評性があってドライでクレバーな話しぶり。もっと話せばブラック木久扇に会えそうだったった。インテリだよ。

 

三木助師匠の話をずうっと横で聞いていたから、本格的な落語もできるけど、入金が減るからやらない、とかも面白い。

 

 

 

赤江珠緒さんが妊娠されたということで、TBSラジオを聴きながらびっくりしたような、嬉しい気分でしたが、3月末でパーソナリティーも卒業ということで、ちょっと悲しい。

 

ピエール瀧が、子供連れてきて放送しようよ、というけど、出産が無事かどうかわからないし、高齢だし…ということでこのようになったそう。

 

たしかに、どうなるかわからない。でもきっと元気な子供と楽しいママになりそうなので、週一でもいいからいつか復帰してほしい。

 

文化放送のほうは、やはり三月で吉田照美が平日帯放送は卒業という事で、関東のラジオファンは、ガラッと変わる年度末が楽しみなような怖いような状態。

未婚の無間地獄

自分は醜くて、とんちんかんなので、ほとんど女の人に相手にされず、未婚のまま40代半ばになった。(実際は女の人というより、他人全般に)

 

もう女性にモテなくて悲しいといった、非モテ(古いけど)の劣等感や侘しさは昇華されてしまったようで、ほとんど感じることはない。

 

それよりも、もう自分の子を抱けない、子育てできない、という虚しさの方が遥かに強い。子供を持って初めて知る感情や、経験や考えに至らないのだという漠とした虚ろ。

 

その空虚というのは、死ぬまで続く無間地獄なのだと思うと、今から気が滅入る。