野良馬ヒンヒン

思いつきを記録しています。下らぬものです。

個人事業主の保険の不思議 と最低賃金

身近に個人事業主が多い。

 

個人事業主が仕事中、ケガをしたとする。

すると一般の健康保険は使えない。

 

そこで労災に入ろうとしても、事業主は入れない。

法律で決められていて被雇用者のみしか入れない。

 

しかしなぜか裏技があって、「労災組合」なる組織に加入するか

社会保険労務士を通してだと、事業主でも労災に加入できるらしい。

でも、保険料が結構高い。毎月5000円からだという。

年で6万円だ。安くない。

 

金額はまあいいとしても、なぜ組合や労務士を通さないといけないのか。

なぜそれらに業務を独占させないといけないのか。

その意義が分からない。なぜ自分でやることが認められないのか。

 

こんなのは簡単だ。複数の被雇用者のための労災手続きは書き込むのは一枚だけ。

毎年同じような計算を繰り返す。だから事業主本人でも簡単にできる。

これとたった一人の保険料を計算することが、どれだけ違うというのだろう。

なんか胡散臭い。天下りだの、裏側の話がありそう。

 

そもそも個人事業主本人が国の災害保険になぜ入れないのだろうか。

そこが間違っている。

 

*

 

今、会社に雇われている多くの人には遠い話かもしれないが、今後はどうだろう。

 

ウーバーイーツで働いている人はみな一人親方だという。

こういう形で一人親方制をうまく使って企業は人を雇い始めるかもしれない。

今までは特殊な技能を持った人たちをプロとして一時的に雇っていたかもしれないが、

今後は現在アルバイトのような人たちを「雇用」するのではなく、

一人親方として「契約」していくかもしれない。

すると労災にも入らなくてよい。

 

最低賃金が上がれば、「雇用関係」は減って「契約関係」が増えるかもしれない。

そうすれば「時給」に縛られることが無くなる。

時給以下の契約を結べばよいのだから。

 

果てして「時給」だけの問題だろうか。

じゃあ「月給」は?

 

「契約関係」なら厚生年金や労災保険料を会社は払わなくても良いのではないか。

すると将来的にはどうなっていくのだろう。

 

今後、一人事業主が増えていくかもしれない。

その時、労災はどうなるの?

20代は新しい文化を産んだり、享受したりする現役最前線世代だと思う。30代は少し落ち着いて、でもまだ新しい文化を受け入れ、理解し、楽しめると思う。しかし40代になると、もう新しい文化が分からなくなった。

 

20代の感性からすると40代は、ひと世代どころか、ふた世代以上先の世代になるだろう。

 

隣の世代はまだ理解できても、ふた世代先になると感性的に接点がない感じになった。もう新しい文化の現役世代ではないのだなと思う。

 

 ブログやツイッターあたりまではなんとなく理解していたつもりだが、それ以降のSNSやyoutuberあたりからはもう感覚的に何が良いのか分からない。流行ってるタレントや音楽はずいぶん前から分からない。

 

それでいて、古い物への思慕や興味は年々深まる。街を歩いていても古びた建物や商店へ目が行き、無くなれば嘆く。いつもそこにあり続ける寺社を頼もしく、ありがたく感じる。

 

古いものはすでに評価が定まっているし、当然自分が子供のころから見ている変わらない物でもある。だから安心感があるのだろう。大げさだけど、むしろここへ帰っていくのだという輪廻みたいなものを感じたりする。こうやって年寄りは古いものを愛していくのだなあと思う。まあ元々そういうタイプなんだけど。

 

 

 

薄いノートがほしい

30枚つづりのよくある大学ノートだと、

後ろの方はあまり使わないで終わってしまう。

それが数冊あるとかさばってしまう。

 

そこで「薄いノート」で検索すると、

紙自体が薄いノートは出てくる。

 

普通のノートで紙の枚数が少ないもので良いのだ。

10枚つづりで半額くらいならどうだろうか。

そのほうが、手軽に新しいノートをおろせて、場所や紙の無駄にならない。

 

またノートを買うのが好き、という層もいると思う。

デザインや色の違うノートを、何種類も買いたいという文具好きにも受けないだろうか。

カセットの歌詞カードのにおい

中一くらいの時、カセットテープに吹き込まれた音楽テープを買った。

CDはまだなかったし、レコードは針が摩耗するのが財布に痛かったので。

 

最初に買ったのはビートルズのバラードベスト20。

イラストが魅惑的なジャケットだった。

一曲目のイエスタデイで、完全にノックアウトされて夢中になった。

次に買ったのはやっぱりビートルズの青盤というベスト。

シビレまくった。

 

思い出すのは、そのカセットの中に入っていた緑色の歌詞カードの紙。

油紙のような手触りと薄さ。印字してある活字も含めて、

なんとなく上品で好きだった。

その紙が独特にいい匂いだった。

その後、あれに似たにおいにまだであったことがない。

 

自分の姉は内弁慶で家庭内では我がままでギャンギャン自己主張する方だった。

五歳下の弟の自分にも対等に攻撃してきたし、こちらもなつかなかった。

 

自分が小中学生のころは男女仲が悪いというか

なんとなくいつも対立しているのが普通だった。

女子はいつもキーキーしてるというイメージ。

 自分の学校だけだったのだろうか。世代差や土地柄とかもあるのか。

 

高校は男子校だった。

 

でも大学で出会った女の子たちは、おおらかで親切な優しい人が多かった。

姉と中学女子のイメージしかなかったので、最初は凄く戸惑った。

たまたま自分の属していた集まりのおかげかもしれないけど。

 

ところが社会に出ると女性はまた冷たく、厳しい。警戒心の塊に見えた。

こちらのスペックの低さも責任もあると思うけど、再び戸惑う。

毒虫のように扱われるとへこむ。

社会に出てからは女性のイメージは基本的にずっと変わらない。

 

もし自分に大学時代の彼女たちとの交流が無かったらと思うと怖い。

きっと女嫌い、ミサンドリーになっていたと思う。
キツイ人と出くわすと、いやああいう優しい人たちも

世間のどこかにいるのだと思い出す。

もう会うこともないけど、あのころの会った人たちに感謝したい。

 

フォークの季節かな

最近、優先でよく聴く「北千住駅の~」という女性ボーカルの歌、

すごく良いというわけではなかったのだけどなんとなく、

全体の節回しが頭に残っている感じ。

気になるなーと思っていたら、これがあいみょんの歌だった。

ハレノヒ。

その後ラジオで流れていた「マリーゴールド」という歌も良かった。

 

何がいいんだろうと考える。

メロディの節回し、歌いまわしが自然に耳に入ってきて落ち着く。

歌詞は聞き取れない部分もあるからよく分からない。

特別なサウンドでもない。むしろ控えめなアレンジだ。

調べてみるとコードもダイアトニック内でほとんど済んでいる模様。

多分、そのシンプルなところがいいんだろう。

フォークソングなのだ。

 

歌とギターとシンプルなメロディとコード。

これで成り立つ。そしてそれが心地よい。

そしてきっとみんな水準が高いのだろう。

グッナイ小形といい、フォークの季節が巡って来てるのかもしれない。

最低賃金じゃ生活が成り立たない、ということだけど、その主旨は分かる。

だが逆に見ると、アルバイト労働とは生活が成り立たない程度の付加価値しか残せないものなのだ、ということにならないだろうか。そもそも時給仕事で生活していこうという生活設計が、厳しい話にも思える。

 

月給取りの正社員は、お前の給料に見合うだけの売り上げを上げろ、付加価値をつけろとノルマなり目標なりある程度の基準がある。

 

しかし時給で働くということは、安いかもしれないけど厳しいノルマはなしでいいよ、ということでもある。

 

時給でノルマがあるというのは、それはもちろんオカシイ。コンビニでケーキの売上ノルマがあるのはオカシイと思う。が、それは時給とはまた別の労働問題でもある。

 

仮に1500円欲しいとなったら、自分の働きにはそれだけの価値があると毎時間実証できるだろうか。1500円x8時間x20日で24万円。月の給料は正社員並みになってくる。与えられるものが高くなれば、当然、求められるものも高くなる。

 

それでも時給で働いて、なおかつ高い時給がほしい、という働き方をしたい人もいるだろう。それは高いハードルを越える自信があるのだろう。

 

しかし全ての時給労働者が、最低賃金を今の1.5倍に望むというのは難しいのではないか。

 

いや、私はゆっくり時給900円で働きたかったという人も、働く口がなくならないか。900円の労働レベルで働きたいという人が集まっていた事業所が、経営をあきらめることにならないか。働き方の多様性もなくなっていく。

 

基準に満たない人はお断りになるだろう。時給労働者にも成果主義が導入されるだろう。そうしなければ正社員労働者から圧力がかかるだろう。

 

問題はそこなのだ。時給労働者の最低賃金という分かりやすい、飛びつきやすいネタが盛り上がっているが、正社員の給料がそもそも安いのだ。しかしそれは各会社の問題だ。

 

そしてまた、アルバイトでノルマ低く責任なく、時給のみで暮らしていきたいという希望も、やや甘すぎるのではないだろうか。もともと以前から厳しい話なのだ。

 

いろんな事情で、望まないのにそうせざるをない人もいるだろう。しかしそれはもはやセーフティネットの問題であって、そっちで対処すべき話だ。時給を上げる話とは別。

 

はてブの有能そうなブコメの皆さんやツイッターからは、この話題になるとたびたび「それくらい払えない企業はお払い箱へ」的なご意見が散見される。

 

しかしながら、その優秀で沢山いるらしい時給1500円主義者が集まって、一つの事業を立ち上げ、高時給でも経営は成り立つという実証をしてやるという話は聞いたことがない。データや実績やノウハウをフィードバックすれば社会的にも有意義だ。

 

優秀で熱意もある人たちが集まっても実現できないことを、他人に強いるというのは虫が良すぎないか。

 

ZOZOタウンが高い時給で求人した。これは良いことだと思う。そうやって良い人材が高い給料をとることは良い。それを企業自らが行うのは良いこと。また山本太郎システムも良いと思う。

 

しかしそれと最低時給を一律1.5倍以上にするというのは、別だと思う。

 

1500円の付加価値に満たない人間は振り落とされ、残った人間は重いノルマと労働量に苦しむ。それをこなせるスーパーアルバイター以外の人間には労働は認められない。すると生活保護に落ちていくしかない。

 

より厳しいディストピアがやってくるかもしれない。その程度ができない企業がお払い箱になるということは、その程度のことができない人もお払い箱になるのだ。

 

 

 

 

どうでもよい話。

 

昔、内館牧子脚本の「想い出にかわるまで」というドラマがあって、

姉妹で男を取り合うという内容だった。

一度も見ていないのに、なぜか内容を覚えているくらい大ヒットしたはず。

 

そこに財津和夫が出ていたらしいのだけど、

その役は当初、元頭脳警察PANTAにオファーがあったのだが実現しなかった、

というトリビアを思い出したものの、単なる噂だったのか、

もしくは自分の思い違いだったかもしれず、

ネットにも類する話はなく、真偽は定かではない。

 

1971年:紫ふとんブーム

近所のふとん屋さんは昭和46年の紫ふとんブームで儲かったという話を家族がしていたので、なんだそのブームはと思い検索してみた。

 

なんでも亥年に紫のふとんで寝ると健康長寿になるという言い伝えがあり、特にこの年は60年に一度の釵釧金(さいせんきん=十干十二支の組み合わせの一つ)の亥年という最適年だったらしく、全国的な大ブームとなった様子。

 

今年は亥年ですが、もうだれもそんな話はしてませんね。

 

このあたりにちらっと触れられています。

https://www.nishikawa1566.com/company/history/09.html

https://www.futon.or.jp/jfma-history/

 

カフェオレーベル

グッナイ小形について書いてから、カフェオレーベルについて調べていた。

http://www.cafeo.tv/

 

結構長く経営されていて、くるりスネオヘアーの先鞭をつけたのもここらしい。

動画も面白いし、音楽についてなるほどと思うことが沢山流されている。

 

個々のスタジオのレコーディングに参加している三人のミュージシャンたちがまた

腕っこきでよい。

 

 

なんかスタックスやマッスルショールズ、フェイムスタジオなど

60年代や70年代のアメリカの中小スタジオ/レーベルには、

上手くて渋いハウスバンドがいたらしいけど、そういう関係を思い出させるし、

実際そんな音楽の雰囲気もある。

 

そしてここから発売されているCDは曲数は多くないのだけど、

そのためなのか手ごろな値段。

これくらいならちょっと聴いてみたいから買っちゃおうと思える。

 

これはどういうことだろう。

低予算でも作れるよ、という時代になったのだろうか。

だいたいCDって一般に曲数が多すぎる。

 

そしてカフェオの音楽はどれも、なんだが音がいい。

デジタルで録ってるのに生々しい。生々しいのにクリア。

少しずつ買ってみようかと考えている。

 

なんとなく新しい音楽の造り方であって、それがどこか温故知新でもあるのが不思議。

賞味期限/食品廃棄の論争。一度ブラインドテスト比較してみたらどうか。

賞味期限論争が先週あたりあった。

https://news.nifty.com/article/entame/showbizd/12184-47362/

 

テレビ局や、関連する研究所は比較検査をしてみてはどうだろうか。

 

賞味期限から遠いモノ、近いモノ、やや過ぎたモノでどれだけ違いがあるのか、

味覚をブラインドで比較して違いが判るのか、

科学的な健診において、健康に対して違いがあるのか、

一度比べてみてはどうだろうかと思う。

 

まず味覚で分からないだろうと思う。

そして健診でも違いは出ないだろう。

であれば、あとは「気のせい」だという結論になる。

 

その単なる気のせいがどれだけの食品廃棄を産んでいるというのだろうか。