野良馬ヒンヒン

思いつきを記録しています。下らぬものです。

若いころ毎日が悩みの日々だった。

 

三十を過ぎたある日、ふと思ったことがあった。
とどのつまり、自分の悩みは、劣等感だ。劣等感とは何だ。何かと比べて劣っていることに悩むことだ。


何と比べているのか。それは何の尺度なんだ。
自分を苦しめている尺度は、何なんだ。

それは思い込みだ。

 

世間や他人の作った良し悪しの尺度に、自分を照らしあわせ、劣っていると思い込み、オロオロと悲しんでいるだけだ。

 

そもそも、その尺度はだれが作ったのだ。信用できる尺度なのか。根拠があるのか。本当に絶対的に正しい尺度などこの世にあるのか。それに従えば、誰かが何かをしてくれるのか。保証してくれるのか。


それを信じている自分もおかしくないか。根拠の無い尺度を、思い込みから、盲信していないか。自分を痛めつけるような尺度に、なんの意味がある。なんの義理がある。

 

結果、この世に絶対的な尺度などない。だから極論すれば、良し悪しもない。上下もない。フラットなのだ。フラットならば、自由なのだ。

 

他人から見れば当たり前の話だろう。
今の自分から見れば、バカバカしいような話だ。
でもそれは、その時の自分にとって、天啓のような閃きだった。

理屈で言えば簡単な話でも、自らの身を持って実感することとは、全く違う。
それは別物のような深みがあるものだ。
理解と実感は別物だ。他人は頭で理解しているだけで、自分の心で実感したものとは、天と地ほども価値が違う。

他人には、無意味に思える悩みでも、それは当人とっては大きな悩みだったりする。
重い足かせだったり、打ち込まれた楔だったりする。

しかし他人には無意味、というのが、実は大きな意味を持っているのかもしれない。
それは、自分にとってのオリジナルなテーマである、ということかもしれない。
悩みとは、裏返せば、テーマであり、最終的な目的なのではないだろうか。
つまりそれは、自分そのものなのかもしれない。