近年のネット、メディアでの様々な炎上事件、舌禍事件を見ていると、
もう一度建前社会に戻ればいいのだと思う。
昔のテレビやマスコミは今より形式ばっていて、
建前的な表現が多かったが、その分まだ上品だった。
80年代以降は、それまで人前で慎んでいたような批判や毒舌を大声で話し、
楽屋話を表に出し、お約束を壊し、形式を越え、建前を駆逐した。
見ているこちらにも一種の快感はあったと思う。
40年近く経って、もう一度建前の社会に戻ればよいのかもしれない。
建前と本音を再度分ければよいのだ。
それはちょっと窮屈かもしれないけど、もしかしたら成熟かもしれない。
その先はどんな価値観の世界なのか見たいとも思う。
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またちょっと別の話。
このノートを読むと、たしかにその通りだけど、
いまだに他人を嗤うという行為はいまだに世の中にある。
愚かな行為や、劣等な特徴を表立ってあげつらうのは、
マナー違反、人格を疑われるような行為だという時代が来ると思う。
上のブログの中で紹介されているCHAIというグループの姿勢を見ると、
こういう人たちが今後の価値観を変えていくのかなと思う。
例えばそういう揶揄する言葉も、放送禁止用語みたいに
音や伏字で消される日が来るのかもしれない。
しかし一方で、人間というのはポジションでものを考えてしまう。
片方でこの言葉には気を付けようと思いつつ、別の言葉には無関心かもしれない。
はてブではこの数日この文章が話題だ。
現在、他人の容姿を嗤ってはいけないと思う人も、
「性的弱者、恋愛弱者、KKO、精神に問題をかかえた人達」
については煽っていいと思っているのかもしれない。
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特徴の優劣で人間を区別するというのは、人のもつ動物に近い本能なのかもしれない。
幼児からして行うことだ。しかしそれは弱さからの欲望だ。
理性が本能に負けてしまっている状態だ。
でもそれを克服していくというのは成熟の機会だと思う。
他人の属性や外側での判断、評価を禁じれば、中身を見るしかない。
するとその中身とは何だろうという段階が訪れるだろう。
初めて我々は大人になるのかもしれない。
それは何年後だろう。