希望者全員検査すべきというのは無茶があると思うけど
検査が増えると医療崩壊するという説もなんだか信じられない。
医療崩壊が怖いなら、医師が必要とした人を検査して、
軽症者は自宅待機、重症者は入院と振り分けたら良いのではないか。
しかしながらトイレットペーパーの事態をみると、
我々国民もあまり冷静とは言えず、無理もないか。
それとも噂通り患者数を抑えたいのだろうか。
衛生用のマスクが売り切れだったけど、作業用のマスクを余らせていたことを思い出した。どれだけ効果あるのか分からないけど、無いよりいいと思って使用してる。
カップ型でプレスされた紙繊維製なんだけど、普通の衛生用より会話しやすくてよい。言ってみればドーム状の固形なので口元の邪魔をしない。
樹脂製のマスクがいいのではないかと前に書いたのだけど、今でもそう思っている。
http://el-bronco.hatenablog.com/entry/2020/01/31/132505
ナノレベルの穴を空けた樹脂マスクならウイルスも侵入せず呼吸できないだろうか。耐熱性ならいつでもお湯で洗浄することもできるはず。何度も再利用できて普及すると良いと思うのだが。
他人の自慢話や近況報告は、聞いていてもあんまりピンと来ないが、他人の思い出話というものはいいなあと思う。
高齢の人と顔を合わすことが多いのだけど、思い出話の宝庫だ。だけどあんまり立ち入ってもいけないし、なかなか引き出すのは意外と難しい。その上、自分の話など誰も興味ないと思っている人が多いのだ。
いつも自慢話バリバリのやり手のオジサンが、遠い目をして子供のころや、若いころの出来事を振り返るのも良い。
歳を経るたびに、人は未来よりも、今よりも思い出に生きていると思う。
「犬を連れたルネとジョルジェット」
ポール・サイモンの音楽の舞台のほとんどは思い出の中にあるようだ。
この歌の題名を直訳すると「戦争の後で、犬を連れたルネとジョルジェット」。
画家のマグリット夫妻が犬の散歩をしているスナップ写真から着想した。
アメリカが不思議なのはトランプが勝ったり、粗雑な力技の人が多いのかと思う反面、こういう人が支持され続けたり不思議な国だ。
ボブ・ディランに続いて、この人がノーベル賞とってもおかしくないと思う。
相模原に住んでいたことがあった。
北口の長い商店街の一番奥に病院があって、その100mほど手前の西側にカウンターだけの小さな中華屋さんがあった。名前は忘れた。
中華料理というより、中華定食屋さんという風情だが、餃子やチャーハン、麺類と何を食べても美味かった。中でもうまくて何度も食べた定食があった。
油淋鶏のようなもも肉の唐揚げをとんかつのようにサクサクと刻んで、その上にかき玉のあんかけが掛かっていた。あんかけは上品な黄金色で、塩と鶏ガラスープで味付けられていたように思う。サクサクの鶏肉はアツアツのジューシーで、ふわとろのあんかけは優しい玉子味だった。ふたつが合わさった部分は鶏を包んだ薄い衣がしっとりとしていて、それもまた美味かった。
バイトで金が入るとそこに通って食べた。
店主の人は眉毛の濃い50代くらいの人で、愛想がよく、いい人だった。互いにニコニコ挨拶して、注文、食事、勘定でお別れで話し込んだこともなかったけど、一度だけ、「久しぶりですね」と声をかけてもらったことがあった。こちらは学生の不器用さでハイ、ドウモとにこにこするだけで情けなかった。
なぜか店内にはSLの写真が沢山飾ってあり、一枚だけ柔道の山下さんの写真があった。
そこを離れてから7年後、再び訪ねたが、もう店はなかった。
昔は野菜を生で食べることも少なく、地方ではサラダなんて戦後に一般化したらしい。
当然、出来合いのドレッシングなどなく、酢と油を混ぜて自家製の酢あぶらという「タレ」を作り、「洋風の和え物」みたいな感覚だったという。
親に聞いた話。
普通のことなのかな。外の人から酢あぶらって聞いたことないから特殊なのかと思っていた。
今でもウチではそうして食べるけど、美味い。塩胡椒を入れてレモン汁に替えてもいい。
だから深さは後から気づく
表現とは表に現すと書くが
本当に重要なものはみんな隠すだろう
だから上等な表現は表さない
隠す
色んな騒動を見ていると、「正しい」を隠れ蓑にして、かさに着て
単に誰かを謝罪させたいだけなんじゃないかという気がしてくる。
カネがない世の中になって、能動的に自分の生活を楽しむより、
安いネットの世界で受け身になったまま誰かの不運を楽しみたいだけじゃないだろうか。
バブルのころなんて緩かったもんね。
しかしそういう歪みはいずれ己に「返ってくる」。
しかも自分には気づかない形でということもある。
ある日、家の玄関を開けて外を見ると、20代くらいの女性が目の前を横切って歩いて行った。自分は玄関から出て母屋の脇の犬走で2-3分、片付けの用を済ませた。
そして玄関に戻ると、母親と先ほど歩いて行ったはずの女性が話している。おやおやなんだろう、困りごとかな、とそちらにいくと、母親は話はお断りといった様子で玄関から離れていき、女性からは〇〇コーポレーションの名刺を渡された。
女性は、今、お母さまが出ていらしたのでお話をさせていただいていましたが、私、土地活用とアパート経営の〇〇コーポレーションです、と言った。アパートなどは不要ですし名刺もお持ち帰りください、とお返しした。悪名高いサブリースだ。
うちの母親がそこにいたから、わざわざ踵を返して戻って話をしたというのは、高齢者なら話を聞いてくれやすいし、不動産の権利を持っている可能性も高いからだろう。つまり老人狙いで不動産の借金を負わせようという目論見なのだ。
NHKで取り上げられて数年経って、もう引っ掛かる人もいないと思っていた。しかしながら数軒先にも現在建設中で、騙す方もさながら、騙される方にもあきれる。そして女性の営業マンも、なにもこんな悪い業界に入って来なくても、人手不足の折、きれいな仕事は他にもある。愛想のよい人だったが、こんな世界にキャリアを積むもへったくれもないだろう。なんだか嫌な気持ちになった。
https://dailyportalz.jp/kiji/enjoy_jakegai
「ジャケ買い」の楽しさをもう一度
これを読んで懐かしくなった。あまりやったことないけど、たまに覚えがあるジャケ買い。外れたっけなー。なんだっけあれ…。
レコードからCDに移行してもう30年だ。
それなのにLPサイズのジャケットにまだまだ魅力があるというのはすごい。
そこで思ったのだけど、新作の音源も、ジャケットを別売りすればよいのではないか。
ジャケットだけなら安くできそう。
「ダウンロードした人だけ」みたいな縛りを付けると、色々面倒くさい。
でもジャケットだけでも欲しい人みたいな需要を掘り起こせるかもしれないし。
ジャケットだけ売るっていうのどうだろうなあ。
もしかしたらお気に入りの写真をLPジャケットに仕立てますみたいなサービスとかどうだろう。
最近聴いているSpotifyのプレイリスト
どういうコンセプトか分からないけど、60sから現代までのルーツ系ロックだろうか
新型コロナの流行でマスクが足りないという事態になりつつあるようです。自分は作業用のカップマスクを箱で持っていたので、当座はまだ良いのですが、こういうことにも備えておく時代になったようです。
昔のマスクはガーゼ式の物しかないのですが、これは結構繰り返し洗濯して再利用したものです。最近のマスクは使い捨てが基本なので、足りなくなるとかなり困ります。
最近は、透明なプラスチック製の使い捨てマスクというのもあります。この前スーパーの中のベーカリーで使われていて初めて目にしました。口元が見える方が接客する上で便利なのかもしれません。
またこのプラスチック製なら、いざマスク不足というときも口元部分を消毒すれば再利用がしやすいと思います。口元部分は透明なのでツバが飛ぶと汚く見えるというデメリットがあるようですが、白でも青でも色付きにしてしまえばツバは見えないし、実用上問題がありません。
再利用しやすいマスクというのも、これからの課題ではないでしょうか。ただ極端な話、タオルを巻いても良いのだと思います。
親族に電話の呼び出しコールを延々と鳴らす人がいる。
風呂に入っていたり、休んでいたり、手を離せない家事や作業していたりすると、すぐに出れないことがある。
向こうはお構いなしに電話を鳴らし続けるので、仕方なしに中断して出ると、どうでも良い内容。
だいたいこういうコールをする人は、がまんの閾値が低い。
だからどうでもいいハナシでもすぐに決着を付けたいので、相手の状況など考えず、さっさと電話する。すると今度は相手が電話に出ないことに我慢がならないので延々とコールをし続ける。
相手への尊重や想像力がない。それらがあれば、長々コールを鳴らせるはずはない。我慢ができず、想像力が低く、他人への敬意がないというのは、人としてレベルが低すぎる。大人として良識を欠いているという自覚がほしい。ムキになって勝ち負けのように掛け続けているのかもしれない。そう考えると不気味だし、敬遠、軽蔑する。
10回も鳴らして出ないのは、居ないか出られない状況なのだから切るというのがマナーだ。それだけやったら割り切って考えを変えるべき。そういう柔軟性や創造性がないのだろう。動物みたいだ。前頭葉働いているのか。
むしろそのタイミングで掛けた自分の方に非があるのだ。相手側には必ず電話に出る義務などない。