野良馬ヒンヒン

思いつきを記録しています。下らぬものです。

映画「生きる-LIVING」(カズオイシグロ脚本)を観た

オリジナルよりも、スマートで紳士な感じの「生きる」という感じでした。

 

元祖の持つ匂い立つような剥きだしの生命力みなぎる戦後感は当然ないのですが、イギリスの古い役所や役人の仕事・生活はこうなんだなと識る喜びがありました。映画の中に異国の生活のディティール感を求める人には良いと思います。

 

特に背広。スーツ。これが好きな方にはたまらないでしょう。山高帽をかぶった英国紳士たちの仕立ての良さそうなスーツ姿が佃煮の詰合せのようにスクリーンに登場します。

 

本来ドラマティックなはずのストーリー展開も、極端に寓意的な黒澤版よりは穏やかに演出されております。

 

イギリス映画らしく(?)美男美女総出というよりは、やや地味目な人たちがジワジワと魅力を出してくる役者さんぞろいです。ちょっと宇津井健ふうの主役のビル・ナイも然り、サバンナ高橋ふうの助演のアレックス・シャープも然り。

 

日本版で主役に精神的再生を与える「小田切みき」役にあたる「ミス・ハリス」のエイミー・ルー・ウッドも、美形ではないけどとても魅力的。主役の元上司にきちんと意見をするという良い役を演じておりました。

 

最後に流れが反転する部分もソフトで、これはこれで後味が良かったのだろうと思います。

 

www.youtube.com

RRRを遅ればせながら観たのだが

ちょっとバイオレンスが過ぎるけど、3時間弛まずアイデアを山の如く詰め込んで、テンポ良し、スピード感も情緒もあり、ダンスに恋にアクションにエンタメとして文句無し。

 

しかしメタ視点ではイギリスの人はどう観たのだろうかと心配なくらい「反英」。

 

とにかくイギリス側が血も涙もないくらい非人道的に描かれ、その憎々しさへの反発であとに続く怒涛のご都合主義も許せちゃうくらい。

 

そう言う効果があるのも理解しつつも気になる。よく考えるとかつてアジアであった「抗日ドラマ」のような物である。

 

前半2/3はとにかくインド人が虐められる。残りはイギリス人がバンバン殺される映画。熱狂したであろうインドの人たちと、うんざりしただろうイギリス側。そう思うと少し複雑である。

 

 

エンペラー・オブ・ライトを観てきた

エンペラー・オブ・ライト

 

 

80年代イギリスの南岸の田舎町の海沿いに建つエンペラーという古い映画館での話。

 

主人公は生真面目に働く中年女性。同僚たちは少し気難し気な小柄な老人の映写係。シンディ・ローパーみたいなメイクの女の子。その他、青年たち。そして少し偉そうな支配人。

 

そこに大学浪人中の明朗な黒人青年が加わって話が始まる。

 

www.youtube.com

 

大きな物語に引っ張られて振り回されるような話ではなく、エピソードやシーンの一つ一つが積み重なり、その中で印象的なセリフや芝居、生活感のある描写を楽しむような映画。

 

印象的だったのは、詩や歌が控えめながら効果的に使われている。

 

休憩室で従業員たちは楽し気に会話を度々している。その中で「歌」についてよく話されている。

 

主人公と映写技師は詩人の書く「詩」について会話をし、若者たちは当時のトップ10ヒットを「ウォークマン」やラジカセで楽しみ、新入りはスカなどの「2トーン」ミュージックを愛好してると話す。

 

それぞれの世代の歌を楽しみ、それが彼らの内面とつながっているように見える。他の世代の好みを否定したり、分断されてるような描写もなく、休憩室の様子は微笑ましい。

 

そして主人公は家に帰ると自分の世代的なストライクなのだろうジョニ・ミッチェルボブ・ディランキャット・スティーブンスなどSSWの曲をかけている。

 

特に主人公が引きこもるシーンで流れるボブ・ディランの「イッツ・オーライト・マ」は印象深い。

 

ディランのこの曲のテーマは死や反権力や反戦に思えるが、歌詞を読んでも難解すぎてストレートには理解できない。だがこの曲の混沌が主人公の内面の混沌と通じているようだし、ディランの詩の難解さは他者から見た彼女の存在の難解さと似ているのかもしれない。

 

救いになるシーンは老映写技師と彼女の交流である。わずかではあるが彼らは普段から「詩」について語り合う仲のようで、それは互いを人として信頼しているように見える。

 

*

 

なんとなく不思議なのは、音楽が適切で雄弁な割に意外にもあまり「映画」については直接語られることも描写されることも少ない。古い映画館の物語ならだれかしらに映画愛を語らせたりしそうなものだが、さほどでもない。

 

主人公も真面目なせいか、ここで映画を見たことがないという。生真面目と混沌の二つの内面を行き来する主人公が、ある日、就業時間の後に映画を見たいと願う。小さな逸脱。そこで映写技師が流したのは、ピーターセラーズ演ずる純粋な愚か者が世間を魅了する話の「チャンス」であった。これもさり気なく見せるだけ。

 

全編さり気ない演出でやや薄味に思えるかもしれないが、観終わってから反芻するとどのシーンも意味がありそうで良い映画であった。

テレアポ電話営業の業者って、個人データを集めてるのか

職場に迷惑FAXが届く。届いた紙には、こういったFAXの連絡が不要なら「不要である」と返信してくださいというメッセージと、返信FAX番号が書いてある。

 

真に受けて実際にそのようにするとその発信元からは確かに受信しなくなる。しかし別の発信元から、これまでより多くのFAXが届くらしい。彼らは反応を記録し、確率を上げるため活用している。

 

*

 

振り込め詐欺や押し入り強盗に使われているという被害者の個人情報データ。いわゆる「カモ」のデータがあるという。

 

*

 

NTTの代理店や電気料金を下げる話や不用品買取の営業電話もかかってくる。あれが個人宅にかかってきた場合、電話に応対した人間の属性がデータとして抜かれているのではないかと勘繰ってしまう。

 

例えばこの番号はこのあたりの住所で、若い女で、年寄り一人住まいで…のように。毎日複数で数百件かけ続ければ相当なものが集まると思う。さらにそれを複数のデータと組み合わせると精度が上がる。

 

*

 

以前からテレアポ営業・ファックス営業はやめて欲しいと思っていたが、線引きが難しそうなので無理だろうとは思う。

 

しかしすでに固定電話には出れないような時代になってしまった。現に高齢者はおいそれと出ない人が多い。なんらか対応をしないといけないのではないか。

 

 

「さかなのこ」を観た。

 

最初は絶対見ないタイプの映画だろうと思っていたけど、ネットでは意外にも「傑作!」と絶賛する人も多い。

 

時折見ているyoutube配信、漫才師の米粒写経の「映画談話室」では、試写で観てとても良かったという映画評論家の松崎健夫氏の話があった。年に数百本を見るこの人は、めったに映画の内容に入り込むことは無いのだけど、この映画は後半とても感情移入してしまったという。そんな見巧者が、それだけ素晴らしいと言うなら見て見ようと思った。

 

 

 

米粒写経居島一平氏は上の映像の通り、当初は予告編見てイラついたから絶対見たくないということだったが、ひと月後の配信では実際に観て印象を訂正している。

 

 

 

自分としてはちょっと長い。三つのパートに分かれているのだけど、真ん中が長い。もしここが短いか、無かったら、もっと鮮烈な印象になったのではないだろうか。

 

最後の展開で〇〇が××したというのも、なんとなく安直で首をひねる感じがあった。事実ならば仕方ないし、寓話的な物語で子供向けでもあるのでこういう形にまとめたのかもしれないけど。

 

そういうマイナス点もあれど総合的には良かった。傑作までは行かないけれど。性善説のファンタジーなのだけど、成功の裏側のダークサイドもチラリと触れているので、バランスが取れている。

 

どことなく不安定で不穏な雰囲気の画面や間合いも独特の魅力があるし、子供時代の主人公役の子役や、「カミソリ籾」役の岡山天音も、この世の人ではないような儚げな魅力があった。さかなくん本人の役も意味が深く、面白みを与えている。

 

なんて書いているけど、実査に観終わったときは、長かったなー、という程度の感想だった。それがなぜだか、その後数日間この映画について考えているのだ。観た後、やっぱりあのシーン、あの雰囲気良かったなと反芻してる内になぜか印象が良くなっていった。

 

実は岡田斗司夫氏もそのようで、こんな動画を出している。

 

 

 

この動画で氏が語る様に、観た後ずっとこの映画について考えてしまう、何がいいのか上手く言えない良さがある不思議な映画なのだ。

 

 

安倍さんは一次と二次の政権で大分変ったように見える。そこが安倍政治を振り返るポイントではなかろうか。

 

*

 

安倍さんは第一次政権では保守色はそんなに強くなく、所信表明も「小泉改革を引き継いだ構造改革を目指す」であった。

 

小泉改革は『聖域なく』がポイントで、聖域とは抵抗勢力の「官僚・族議員天下り」であって、そこも容赦なくやりますよということ。政治主導を取り戻しますという宣言だろうと思う。

 

だから敵設定である「抵抗勢力」は野党ではなく官僚組織、族議員天下りだった。このころは安倍さんから野党への野次なども印象がない。

 

しかしその結果、安倍さんの最初の政権は、官僚からのアシストが少なく、もしくは足を引っ張られたか、まるで「どこか」からかリークされたようなスキャンダルが政権内に連発された。そして参院選で大敗し、内閣改造も失敗し、総理・総裁を降りた(ように見えた。体調云々は後から広く知られたはず)。

 

自民党政権はその後、福田、麻生と転がり野党へ落ちた。

 

小泉政治が盛り上がったのも、安倍さんが参院選を大敗したのも、民主党が政権を取った時も浮動票が動き、高い投票率となった。それを盛り上げたのはマスコミだった。メディアが盛り上がれば、投票率が上がり自党は不利になる。自民党は浮動票の怖さが身に染みたと思う。

 

その後、やはり構造改革路線を実質継いだ民主党も、「事業仕訳」が官僚の逆鱗に触れたのか皮肉にも安倍政権と似たように崩れていった。

 

政権の維持に必要なのは、官僚と浮動票の対策である。

 

*

 

第二次安倍政権は良く知られた通りだが「聖域なき構造改革」というワードは聴いた覚えがない。むしろ財務省とは消費税と金融緩和をバーターし、財務省の代わりに経産省を抱き込んだように見えた。官僚とは「取引」をしたようだった。

 

抵抗勢力」という言葉も消え、その分、野党やリベラル勢力をあまり上品ではない野次で攻撃した。そしてなぜか議論はしないのに改憲を「掲げ続け」た。これらは保守票へのパフォーマンスにも見えた。

 

メディアや総務省に強い世耕氏や菅氏を要職に据え続け、マスコミ対策=浮動票対策も成功。投票率は下げ止まったままになった。

 

*

 

安倍さんは何をしたかったのか、正直良く分からない。とにかくもう野党に堕ちたくないという恐怖感だったのではないか。そのために重視したのは投票率を上げず、固定票・組織票を固めてようという方針だった。宗教組織の力にも頼り、それがあの銃撃につながったのかもしれない。

 

*

 

安倍さんは本質的にそんなに保守でもない。これはBSTBS報道1930で元自民党古賀誠氏もそう言っていたから、同じように考える人も少なくないと思う。

 

一体、何がしたかったんだろう。そんなに改憲したかったら、9年間の総理在任期間にもう少し進めても良かったと思う。本当は荷が重かったのではないか。

 

第二次政権でやりたかったことはとにかく下野したくない、与党でいたい、そのために選挙対策しようということだったのではないか。亡くなった人に悪いが、空っぽの大きな箱だったようにも見える。

 

あの第一次政権の後、野党になった時、安倍さんはどう過ごして、何を考えたのか。あまり伝わっていないが、日本のこの直近10年を振り返るポイントだろうと思う。

ジェームス三木の「翼をください」

ジェームス三木というと「春のあゆみ」スキャンダルを思い出してしまう下衆な自分が嫌になりますが、名脚本家であります。

 

例えば江口洋介のデビュー作「翼をください」。

 

 

同じ町に進学校と落ちこぼれの学校。別々の制服なので町の人にも比べられる。

落ちこぼれ校に新任の「イマイチ」先生がやってきて生徒を焚きつける。

「お前達の不平・不満を地域の人達に聞いてもらおうじゃないか!」

やがて心を開く生徒たち。発表をする文化祭の日が近づくが‥‥

 

生徒が次々に思いの丈を話しだすシーンの演技とは思えないリアリティや

様々な妨害を乗り越えた先のエンディング

教師役の鶴太郎の熱演など見どころが沢山あります。

 

演出は富澤正幸。おんな太閤記やチロルの挽歌、春日局の名将です。

生々しいほどの生徒たちのシーン、どうやって演技をつけたのでしょうか。

 

リアリストのジェームス三木が贈る青春賛歌なので、大人も惹きこまれます。

ジェームスにとっては異色作かもしれません。

小品かもしれませんが、その分純度の高い良い作品です。

あまりの反響に何度も再放送され、舞台化も度々されています。

 

*

 

本放送時に中学生で、たまたまNHKで見ておりました。

次の日学校に行くとヤンキー系の女子が

「昨日いいドラマやってた! 見た? 見た?」

と周りに話していたのが印象的でした。

あの子は元気かな。

 

80年代に中高生だった人は是非是非。今ならフル尺で上がってます。

 

 

*

 

むかしのNHKは単発のさりげないいいドラマがあったなあ。

 

 

平面志向のモール。縦型だったショッピングセンター。

長年地域に根強いてきた大型総合スーパーが閉鎖して6年ほど経った。

 

跡地は大きな倉庫になった。中身はネットショッピングの在庫らしい。

 

流通の変化に沿った変容が象徴的だ。

 

 

少し離れたところにホームセンターと食品スーパーが合体したショッピングモールができた。

 

近所のご老人たちは、昔のあの総合スーパーの方が良かったと嘆く。なぜか。

 

総合スーパーは縦に高い建物だったので、エスカレーターを使えば無駄に歩くことが少なかったという。

 

今行く、ホームセンターも食品スーパーも平面的な構造なので、あっちこっちに歩いて時間がかかるし、疲れてしまうらしい。

 

若い世代には似たようなものに見えるが、言われてみるとその通り。

 

どうして近年のモールは平面志向なのだろうか。

 

 

つい先年まで首相であった与党の最重要クラスの政治家が、月3万8千円の部屋に住む無職の氷河期世代に自作の銃で撃ち殺されるというのは、日本の歴史上でも最大級の格差のテロではないだろうか。その動機が辻褄の合わない話というのが、現代の混沌である。この事実以上の言葉は出てこない。

友達より知人でいいじゃないか。

dot.asahi.com

 

内容は別として、たしかに自分も友達がほぼいない。

 

なぜ男はそうなのか。若い内は、どちらかと言うと「狭く深い関係」の方が落ち着く人が多いのではないか。でも年をってくるとむしろ浅く広い関係の方が必要になってくる気がする。

 

若い時分は誰もが未熟だ。悩みや不安が多く、一人でいるよりも複数で過ごし、朝まで飲み明かしたり、愚痴を言い合ったり、励まし合ったりという濃厚な人間関係も必要だろう。若さにはウェットで濃い互助的ケアーが必要だったのだ。それはある種の依存でもある。

 

しかし年を取れば精神的にも安定し、むしろ他人に頼らずに自律的に、自分の賄える範囲で暮らすのを目指すうちに、アレアレ、友人関係が減っていたという人も多いのではないか。それはむしろ、元々良い事だったろうに。

 

また深く長い付き合いの友人の方がよく知っている分、かえって悪いところが見えすぎたり摩擦も深くなるため、互いに距離間を探っているうちにいつのまにか自然消滅ということもある。

 

しかし浅い関係を広く、手近に作れる人は適当な人間関係で生活を彩ることができる。年を取っての友人関係は、浅いほうが良いということもあるかもしれない。

 

友人というより、知人でいいじゃないか。

 

若い頃は沢山知人を作ることを目指すのはなんとなく軽薄に思えた。より少数の親友でよいとも考えていた。しかし今更「親友」というのも重たいし、そもそも相手には迷惑だったかもしれない。

 

自分のような男は、その発想の転換をした方がいいのかもしれない。しかし面倒なもので、なぜそうなのかという理屈が欲しくなる。厄介なものだ。

ククルス・ドアンの島』を観た。

 

あらためてスケールを拡げた作劇は見事だし、戦闘シーンも素晴らしい。しかし何か違う。

 

ファーストガンダムはドライな人間観や演出が、自分には魅力であった。今回はストレートな人間愛とよくあるアニメ的な派手な人物演出になっているのが、どうも落ち着かない。

 

ファーストの人物たちは戦争に巻き込まれたり職業軍人だったりで、多くは疲れ切っていたのがリアルだった。人間の距離感も遠く、むしろ冷たく突き放した視点が、人物たちにも作る方にもあった。雄弁過ぎない人物たちが魅力的だった。そこを愛したファンも多かったのではないか。

 

個人的には、アニメの派手な抑揚のセリフ回しやアニメ的なおふざけ描写が苦手で、アニメーションをほとんど見ない。自分がファーストに未だに惹かれるのはそういう部分がなく、抑制のきいた演出だからだと思う。冨野監督ならどうだったろうと考えた。

今時豪快カッコいいロックバンド ステレオガール

TBSラジオでステレオガールと言うバンドの曲が掛かっていて、かっこよかった。

 

 

もうリアルタイムのギターロックでワクワクすることはないのだろうなと思っていたけど、時代が一回転しているのかなというくらいに衝撃がありました。

 

豪快グランジ的なギターと、ブルージーなギターと、グルーヴィーなベースがレイドバック気味にウネウネしててカッコ良い! そこに気だるげな女性ボーカルが乗っている。構造的には90年代にあったかもしれないけど、それぞれのフレーズに普遍的な才能のキラメキのようなものもビシビシ感じる。曲が短いのも潔い。これはもしかすると新たな時代の鐘の音か。

 

2022年の2月の終わり、陰鬱な今この時に鳴らされているというのも、何かの暗示のようだ。

 

stereogirl.stores.jp

サム&デイヴ ソウルマン には二つのバージョンがある

中学生の頃(86-87年くらい)にブルースブラザーズがテレビで放映されて、その音楽のカッコよさにぶっ飛ばされた。それ以来サザンソウルが好きになった。

 

そのBBのコンビの元ネタがサム&デイヴだということで、ベスト盤をレンタルカセット(!)で入手。コピーされたものを繰り返し聴いた。

 

その後も別のCDを手に入れてやっぱりよく聴いたのだけど、大好きな「ソウルマン」にはバージョンが二つあるようだと気が付いた。

 

最初に聴いた方は、ギターのオブリガードのタメがよく効いているように思えた。こっちの方がよりブルージーで自分の好み。後から手に入れた方はオブリのフレーズがオンタイムでスムーズなんだけど、ブルージーさはチョット欠ける気がした。

 

それを長年時折思い出して検索してみたのだけど、そう言う情報は特になかった。きっと別にどっちも全体的にはカッコイイのだから、大した違いじゃないし、事実に気づいてもとくに問題にはならなかったのだろう。この大らかさはサザンソウルらしくて良いのかもしれない。ビートルマニアの繊細さとはちょっと違う。

 

それが今日思い出してまた検索してみたら、英文のWIKIには載っていた!

hrvwiki.net

Original and alternative recordings という欄である。

 

DEEPLで訳すと

「オリジナルと別録音
同じセッションで、「Soul Man」は2つのバージョンが録音され、その後どちらもリリースされた。この2つのバージョンの違いは、曲の最初の30秒の間に見られる。一方のバージョンでは、サム・ムーアが「Comin' to you...」と熱唱して曲が始まるが、もう一方のバージョンでは、「Comin' to ya...」という歌詞が冒頭に出てくる。後者の方があらゆるフォーマットで入手しやすく、前者は45回転のオリジナル盤で入手しにくい傾向があるが、ラジオで最もよく流れるバージョンである。この曲のモノラル盤(シングル)とステレオ盤(アルバム)には、それぞれ異なるバージョンが収録されています。」

 

シングルとアルバムで違うらしい。

違うと言われる二つを改めて聞いてみると、どっちもカッコ良くて違いが良く分からなくなってしまった…。

 

こっちが自分が最初に聴いた方だと思う、おそらくアルバムバージョン。 

 0:16の歌い出しの節回しがちょっと違う。

 0:39のギターがルバート気味でちょっとブルージーにもたらせている。

 

こっちは自分があとから聴いた方でシングルバージョン。

 0:18~歌い出し  0:41~ギターオブリ

多分、日本国内ではこちらの方がよく聴かれているのではないか。例えば明石家さんまの「から騒ぎ」で流れていたのはこちらだと思う。

 

ちょっと違いませんか? 

「ゲットバック」前史

前のブログの続きですが、ビートルズはこのセッションの開始早々あんまり和やかではなく、どっちかと言うとトゲトゲした空気で自棄になって悪ノリしているように、自分には見えました。

 

ではその前は何してたんでしょう。

 

ゲットバックセッションは69年の初頭ですが、68年の頭から春までのビートルズはインドでヨギ師の下で瞑想の修行をしています。

 

そこにポールとジョンはアコースティックギターを持ち込んで、曲を書いていました。これが68年秋発売のホワイトアルバムにレコーディングされるのです。

 

あのアルバムの全体のトーンは、シンプルで静かでアコースティックな感じがします。これは曲が書かれた瞑想目的の静かな環境や、機材がアコギに限られていたということが影響していそうです。

 

www.youtube.com

 

インドから帰ったメンバーはホワイトアルバムの本番のレコーディングに入る前の68年の五月に、イーシャーという土地にあるジョージの家で四人は合宿し、デモテープを作ります。これは和やかに行われたそうです。どうもプロデューサーのジョージ・マーチンからの巣立ちを意識していたようで、これまでに類のない出来事でした。

 

www.youtube.com

 

和やかだった合宿ののちの本番のレコーディングですが、ここに突然オノヨーコが現れます。ジョンとヨーコは愛し合っているので一緒に居たいだけだったらしいのですが、そもそもビートルズの録音現場は部外者は入れないという不文律があったらしく、ヨーコがあまり歓迎されなかったのは予想できます。「ゲットバック」の中でもあまり馴染んでいないようですから、初対面の時はさぞやギスギスしたでしょう。

 

www.youtube.com

 

さらに機材の発達により、四人で同時で一緒に録音する必然性がなくなり、バラバラにレコーディングすることが増えたようです。これを一体感が失なわれたと感じたのか、この時の反省が「ゲットバック」で四人一緒にライブ録音という方針になったと思われます。

 

68年10月にレコーディングが終わり、11月22日にはホワイトアルバムが発売されました(早いな)。

 

そして69年の1月2日からゲットバックセッション開始です。間がない。ホワイトアルバムの録音・発売・その後の諸々の事後処理が終わるかどうかくらいで、もうお正月からあのトゲトゲセッション開始です。

 

ギスギスしたレコーディングが終わり、アルバムが発売となり、羽を伸ばす間もなく、曲を書く間もなく、正月二日から呼び出されて「映画取るから曲録って」と言われたらキツかったでしょうね。

 

時系列をまとめると、

 

68年 年頭~春 インドで合宿 

   5月イーシャーで合宿

   夏秋 アビーロードでレコーディング

   11月22日 ホワイトアルバム発売

69年 1月2日からゲットバックセッション開始

 

軋轢のあった前作から間がなさすぎるのです。そりゃ、曲がないよという会話がなされるわけです。もしこの時、半年くらいゆっくりできる時間があれば、案外音楽の歴史は変わっていたのではないでしょうか。

 

ゲットバック」の中でも、アレン・クラインという人の名前が出てきますが、新マネージャーのことです。実はデビューから苦楽を共にした敏腕マネージャーである、ブライアンエプスタインがホワイトアルバムレコーディング中に亡くなっていて、この時期はマネージャー不在でした。もしエプスタインが生きていたら、きちんとした計画で事が運んでいたかもしれません。

 

さらに新マネージャーのクラインはポールとは決裂し契約を結ばず、他三人とのみ契約しました。これが状況の複雑さを助長しました。ポールは奥さんのリンダのお父さんをマネージャーに迎えたかったのですが、おそらく対抗意識のあったジョンはそれを受け入れなかったのではないでしょうか。

「ゲットバック」視た。

ビートルズファンお待ちかね、撮影から50年後に公開されたゲットバック(レットイットビー)セッションの未公開映像集。

 

なかなか感慨深いですね。そしてまず思ったのは落ち着きがない。特にジョンレノン。小五の男子と言う感じ。

 

それまでの使い慣れたアビーロードスタジオで関係者以外シャットアウトされた聖域とこの現場は大分違っていた。

 

映画撮影用のスタジオで映画関連のスタッフ常駐の中、プロデューサーもジョージ・マーチンからグリン・ジョンズに交代という慣れない環境の上、前作からのメンバーの軋轢がうっすら残ったままだったので、メンバーも落ち着きがなく、どことなくトゲトゲしてる。

 

ジョンは延々にはしゃぎ続けているかと思うと、神妙な顔をして真面目なことをつぶやいたり、かと思うとスタッフの荷物運びを手伝ったり、ぐったり疲れたり、目が離せない。そこが勝新のごとくチャーミング。薬物やっていたのだろうか。

 

音楽的にジョンが印象的なのは、デビュー間もなくから最後までエピフォンカジノというマイナーなギターをずっと使い続けていること。カジノが大好きな感じ。ボディが完全に中空なのでアコースティックギターのように体に響く感じがシンガーとしては歌いながら弾きやすいのかもしれない。

 

このギターは元々バイオリンの様な濃いブラウンカラーだったのだけど、塗装を剥がして木目にしているのも印象的。このころのストレートの長髪にひげ無し丸メガネでシンプルな衣装の、あっさりしたジョンのルックスともなんともマッチしている。

 

最後は有名な自社ビル屋上でのライブ。このライブシーンはそれまでの抑圧の反動もあり、うっぷんを晴らすようにメンバーが冴えまくる。生々しくてワイルド。感動ですね。

 

ここでのポールはもはや音楽の化身。神のごとく歌いまくりベース弾きまくる。後光がさしてるよう。ジョンも遅ればせながらノッて来て、お調子者らしくポーズを決めながらシャウトしまくる。ジョージもリンゴも艶っぽい。

 

晩年に悲しい最期を迎えたビリー・プレストンもまだあどけない笑顔の若者。この人の活躍のおかげでとりとめのないこの歴史的セッションは音楽的に報われた。

 

www.youtube.com

 

www.youtube.com

www.youtube.com