若いころはとにかく音楽漬けという時期がありました。これは一種の中毒のようなものでした。取り上げられたら我慢できなかったでしょう。
若い人は音楽でなくとも、多かれ少なかれそういった対象があるのではないでしょうか。
しかし自分は40過ぎてほとんど音楽を聴く事はなくなりました。興味はあってamassなどの記事はよく読みます。そこからのリンクで動画を確認する程度です。それで充分満たされます。
大人になって、若いころ夢中になったものから卒業するのは、良い事と思います。中毒が治り、依存が解けたのだと思うのです。
歳をとって音楽を聴かないつまらない生活になった、流行が分からなくなった、感性が鈍った、のではなくて、依存する必要が無くなった、精神が音楽から自立した、と捉えてもいいのではないでしょうか。
人によっては、それは例えば流行を追いかけることであったり、ファッションであったり、恋愛や、仲間内の人間関係、だったりするかもしれません。ケータイやネットの人もいるでしょう。
これがギャンブルや不良行為など明らかに悪いことなら、卒業してよかった、ということになります。しかし音楽を聴く事や読書をすることなどは、芸術に触れるといった意味でも、どちらかというと良い趣味とされますから、あまりこういった見方はされません。寂しいことのように捉えられがちです。
しかしこうやって、どうしても必要なもの以外は少しずつ剥ぎ取って、杖なくして自立し、身軽になって歩き出す、ということが一つの成熟の形なのかもしれません。
今思うと、感性が鋭いというのは依存を生みやすい状況のように思えます。感性が鋭いから中毒を起こしやすいのか、依存性向があるから感性が鋭くなるのか。これは卵が先か鶏が先か、のようなものですが、近接な関係を持っているように見えます。
若く感受性の強いときというのは、そういった意味で両刃の剣です。へたしたら中毒をこじらし道を踏み外し、上手くいけばその道で成功します。
大人はその辺りを経験則から無意識に理解しています。だからナイーブな若者を見ると、期待反面、心配もします。心的なゆれ幅が大きいので負担です。そこで安定した道を歩む若者を見ると、安心します。
確かに夢中になっていた情熱を失うのは寂しいことですが、その情熱は、たとえば薬などがもたらす擬似的快感のようなものだったのかもしれません。
時折立ち返りリフレッシュするくらいならいいと思いますが、一度卒業した人は、耽溺することはなくなるでしょう。それでいいのです。