野良馬ヒンヒン

思いつきを記録しています。下らぬものです。

笑いと工夫

ninicosachico.hatenablog.com

 

これに肯定的にブコメしました。

「自分はまるでその特徴にハマるのだけど、単にそれを嘲笑うだけだと、嫌な時もある。でも例えば表現に新しいひと工夫がされていたりすると、自分でも笑えるのです。芸になっていない嘲笑は、不快感を与えるのでは」

 

芸になっているかいないか、というのは、笑いにおいて大変重要だと思うのです。例えば、それが下らないモチーフでも、新しい発想や、新工夫が凝らされていて、その上完成度が高ければ、面白がってしまう。自分にはそういうところがあるし、概ね、笑いというのはそういう異化作用があるものなのではないかと思う。それが笑いの芸(技術)であり、力であると思う。

 

本来、不謹慎である内容の笑いでも、それが芸として昇華されていれば、笑うしかない、そういうブラックユーモアをかつてはビートたけしタモリが撒いていたと思う。下らない、不謹慎だ、でも面白い。

 

この面白いは、ワァ楽しい、という雰囲気モノの面白さだけではなく、興味深い、という知的な面白さの方を多分に含むものであったと思う。人によっては、嫌味、臭みを感じるかもしれないけど、「お、上手いねぇ」的な感性。

 

他人の身を切らせてもらって、笑いを恵んでもらうのだから、己も唯では笑いを得ることはできないはず。その分か、それ以上に、感心をさせなければ納得がされないはずだ。

 

だからクラスの人気者的な人間がその場で、立場の弱い人、弱そうに見える人(本当にそうかどうか分からないし、いじってるほうも分かっていない)を、いじり回すような程度の笑いでは、もう大人の感性では笑えないという時代になってきたのではないか。(地上波の)テレビももう一度成熟してほしい。

 

ただ単に、他人を見下げて笑うというのは、ストレスや劣等感の解消程度の笑いでしかない。

 

怖いのは笑うという現象は、一見、どれも一緒であること。高尚な感度の笑いでも、情のこもったほほえみでも、程度の低い笑いでも、同じような笑い顔だということ(無論よくみれば微妙は表情の違いは、あれども)。

 

その笑い顔の奥にある本当の意味合いは、それぞれ違うのだ。笑いものにするということ、笑顔になる(させる)ということは180度違うのだ。