ララランドをみました。以下印象的な部分。
女優を目指すエマ。同じ目標のルームメイトたちと「私を見つけてくれる誰か」を探して業界人のあつまる「パーティー」へ繰り出す。その会場にカウチがあり、中心にエマ、両脇に別の女性二人が座っている。両脇の二人はスッとしりぞきエマだけが残り、男性が隣に座ってささやきかけてくる。カウチは「キャスティングカウチ」と言っていわゆる枕営業を象徴してるのかも。エマはそういうパーティーに嫌気がさす。
途中まではひっきりなしに歌って踊るシーンが連続するのだが、途中からほとんどストレートプレイの映画になる。
エマの彼氏になるジャズピアニストのセブは、伝統的なジャズに凝っている。昔の友人のバンドに誘われるが、スタジオに行くとコンテンポラリーなポップバンド。セブは嗜好の違いに迷うが、友人に説得される。「お前はかつてのジャズジャイアンツを目指すが、彼らは(当時の音楽の流れの中での)革命者だったんだ。お前の弾いてる店のお客は皆高齢者ばかりだったじゃないか」つまり古い革命的な音楽を今奏でても意味があるのか、と問われました。今、革命的な音楽家でいるのと伝統を守るのは別だと。
またセブを誘った友人は黒人で、バンドのメンバーも皆黒人。今のアメリカの音楽界を見ても、ルーツミュージックを演奏しているのは白人ばかり。黒人音楽の伝統を守るのはなぜか白人。逆に映画界を描いた部分で黒人はほとんど出てこなかった。そしてセブの友人が結婚したのは白人女性。
エマは「夢追い人」が波紋を投げかけるのだ、と歌う。これがこの映画のテーマらしい。しかし、二人は最後に…
そして選ばなかったもう一つの人生。
lalalandとはロスアンゼルス=ハリウッドのことであって、そこで夢を追う人たちを描いたようです。つまり映画人のことですね。ただ成功に浮かれているのではなく、志を持っているのだ、という心根を描いたのでしょうか。意地悪に見ると業界人の自己弁護にもみえなくもないですが。これは「バードマン」での演劇界や批評家への当てつけ部分でも感じましたが。
本日のアカデミー作品賞の発表では、一旦ララランドと名前が挙がったものの、封筒取り違えというハプニングだったようです。結局作品賞は逃してしまいました。残念。