野良馬ヒンヒン

思いつきを記録しています。下らぬものです。

インターネットに失望したのは

昔から、古いものが好きだ。音楽も映画も本も、新作より古典よりに惹かれる。町もそう。東京でも、東京駅から東が好きだ。昔のままの東京がまだ多く残っているようだ。外国の街には旧市街という地域がよくあるけど、東京でいえばそのような感覚ではないだろうか。歴史の蓄積に魅せられるのだろう。新宿や渋谷など現役の繁華街でも、昔の趣のある一画を見つけると嬉しかったりする。

 

学生時代も同級生たちは、その当時のヒット曲を追いかけるけど、自分は20年くらい前の洋楽のヒット曲が好きだったりして、話が全く合わない。友達が買っているFM雑誌は鈴木英人のキラキラしたイラストが表紙になったFMステーションやFMレコパルのファンだったけど、自分は落ち着いた表紙の歴史が深そうなFM]fanや週刊FMが好きだった。皆がキャプテン翼に夢中な時に司馬遼太郎に目覚めたり。

 

新しいもののスリルより、落ち着いた深みのあるものがしっくりくる。蓄積されたものの動かざる安心感がいいのかもしれない。

 

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10年、20年前にはインターネットは新しいメディアだったけど、意外にも古い情報が登録されていった。個人サイトや創成期のブログには、その当時中年だった人たちのかつての思い出や出来事の記録が載っていった。そもそも他人の思い出話を聴くのが好きなので個人的に面白かった。

 

いまよりも、10年前のネットの方が、情報が豊かだったと思う。多様性や深さがあった。商業主義も今ほどではなかったし、各サイトに各人の味わいがあった。主観でしかないけど、共感してくれる人も多いと思う。

 

今はプロバイダーはいくつかの大手に集約されていると思うけど、20年前は各地に小規模のプロバイダーがけっこうあって、それぞれに個人ホームページやブログのサービスを持っていた。

 

そういったサイト群は、プロバイダーの集約と共に姿を消した。小さい物だけでなく大手のプロバイダーも個人用サービスを終了した。そこに蓄積されていた沢山の文章や思い出や記録はデジタルの芥となって消えた。

 

ブログを終了させる前に亡くなった人も20年の間には結構いたろう。そのページを愛おしく眺めた遺族もいたろう。亡くなった人の使用したパスワードを残された人たちが覚えていることもほぼなかったろうから、サーバーの移動もできなかったろう。そもそも存命の人間たちの多くも、いまさら移動してブログを続けた人は少ないと思われる。

 

15年ほど前、GOOGLEは地球上のすべての記録を網羅するだろう、みたいな景気のいい予言をしていた人がいたけど、各社サーバーの維持費にはかなわなかった。

 

yahooのブログや個人サイトが沢山消えた時は、無念であった。自分はそこになにも持っていなかったけど、こうやって記憶は消えていくのだと無念になった。ネットに対する最大の失望はこの時だったと思う。

 

歳をとるほど新しい物への完成は鈍る。それを悲しむというより、単純に興味が薄れていくので、情感も特にない。それよりも昔のことを確かめたくなるのだ。自分が子供のころの出来事のあらましや、それ以前のこと。自分より上の世代がブログや個人サイトで綴っていてくれたもの。もう一切消滅してしまったのかと思うとそれがつらい。