両親が終活を始めたのだけど、遅い。先延ばし癖があるので何にも決めずに来た。こちらも多少せかしたけど、自分の死に向き合わせるのが残酷な気がしてあまり積極的ではなかったことに後悔気味。
そんなんで自分はどうだろうと振り返ると、自分の家族はいないので自分が末代。せめて自室や周辺のものをどんどん処分しようと考えた。
本や古い資料的なものはバンバン捨てたり、買取に出したりできたけど、CDが難しい。
正直ほとんどのCDは今後聴く気はない。もうspotifyとyoutubeで充分。特に音質にこだわりもない。
聴く気がないのだから買取に出せばいいのに、なんだか思い入れもあってまだ出せない。
出せない割に場所を取るので、薄いCDファイルのようなものに入れようと考えるけど、それをするとプラケースを捨てることになる。
プラケースを捨てると、もし将来買取に出そうとすると買い取ってもらえなくなる…という連想を行ったり来たりで、作業が進まない。
さらにケースと中身が違う、ケースに肝心のCDが入っていないなど不備の状態のものも意外と多い。その整理が面倒くさい。どうなってんだ。
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90年代、自分が20代の時、CD全盛期。巨大なCDショップや個人の輸入盤屋があちこちにできて、視聴盤コーナーなんて夢のようだった。1日に複数ハシゴしたりした。
それは音楽自体が文化の中心にいるようだった。メジャーシーンではミリオンヒットが、インディーシーンでは新しい音楽が次々生まれた。リアルタイムの洋楽も邦楽も多種多様、古い音源もリマスターされた。音楽雑誌は溢れかえり、国内の小さなライブやイベントも、メジャーな洋楽アーチストの来日公演もどんどん実現された。
今の50前後の音楽好きはものすごく恵まれた若い時を過ごしていたのだ。何より音楽というジャンル自体が注目を浴びて、輝いているようだった。音楽の神様がいたのだろう。
今はどうだろう。誰もが知るような大物洋楽アーチストの来日公演は聞かず、ライブハウスは減少してるという。巨大なCDショップは軒並み閉店した。バンドの物販では音源よりTシャツが売れるという。
映像と音楽というと、以前は音源を売るためのPVという映像のあり方だった。音楽が中心で、映像はそのオマケのようなもの。今は音楽が映像の補佐のようなものに思える。
少し前まで、若い人たちはイヤホンをして歩いていた。音楽を聴いていたのだろうと思う。今は画面を見て歩き、イヤホンはしていない。映像が文化の主役なのだろう。
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CDを片付けながら、売れるものなら売ってしまおうとよぎるけれど、いや待てよ、と手が止まった。
これ以上音楽自体に興味が失われる世の中になったら、spotify自体が無くなるということもありえる。あれだけ溢れていたブログ群があっという間に姿を消したのがデジタルサービスの怖さである。
spotifyが永遠に続く保証があるだろうか。ダウンロードがあっても、気に入ったものを落としきれるだろうか。やっぱりCDがあった方がいいのでは…とまた片付ける手が進まない夜半であった。