野良馬ヒンヒン

思いつきを記録しています。下らぬものです。

察してちゃんと「つもり」くん

察してちゃんと過ごすのは大変面倒くさい。

同じくらいうんざりするのは「つもり」の人だ。

 

何かトラブルを起こしておいて「そういうつもりじゃなかった」。

そういうつもりじゃないから、無罪、というわけではない。

「つもり」はなくても事態に責任はある。

 

「つもり」はあくまで自分の中だけの事であって、他人には関係ない。

自他の境をきちんとしなければならない。

エクスキューズにはなるけど、免罪されるわけではない。

 

インターネットは過剰反応 飽和状態

どうもネット社会というのは過剰反応気味だと思う。

 

悪い話はやたらと叩き、相手を追い詰める。

良い話は気味が悪いほど持ち上げる。

 

どうでもいい話に数万の人が食いつき

かたやこぼれ落ちていく話も多い。

 

大体のトラブルは主にツイッターで起こる。

顔を合わせなくてよい人たちが顔を合わせるようになったからだ。

 

それぞれの村で暮らしていればそれでよかったのに

皆で大通りで自己主張し始めたり

友達を求めたりし始めたから。

 

そこで起きたトラブルもまた、過剰なほどに盛り上がる。

そもそもそりの合わない同士がもめて

それも半匿名なので苛烈にやり合う。

 

もう出会いを求めず、

そろそろ村に帰って静かに暮らす時期に来たのではないかと思う。

周りで40-50代が突然死してる

4月に取引先の同年代の人が突然死されて、すごくショックだった。

家族ぐるみで知ってたこともあり、なかなか癒えない。

 

この人も併せて、直接面識のない近所の人も含めると、

一二年の間に、身の回りで40-50代の男女4人が突然亡くなっているのだ。

死ぬ間際で命を取り留めた人も一人いる。

 

はっきりした死因を知らないことも多いけど、突然死は脳や心臓関連が多いのだろうか。

 

先日、はちみつ二郎が倒れたというネットニュースを見て、他人事でないなと思った。

 

高齢者福祉の関連の仕事をしている同級生は、

これからは案外、平均寿命は下がっていくのではないか、

それは食べ物の影響のように思う、と話してくれた。

 

現在40-50代というとは60-70年代生まれである。

この世代はインスタント食品や加工食品の発達とともに成長してきた。

何か関連があるのだろうかと漠然と思う。

幽霊はいないが、肝試しは怖い。

死後の世界はない、と頭では理解してるけど、心ではどうだろう。

身近な人やペットが死んだら、天国があってほしいと願う。

では自分が死んだらどうだろう。

あの世はあってほしくない。

もうこの意識が永遠に続いていくなんて嫌だと思う。

 

よく幽霊はいない、あの世はない、人は死んだら終わりと声高に言う人がいる。

それはそうだけど、そう思っていない人もいるわけで、

殊更に声を張るのは、なんとなく野暮に見える。

むしろ科学的で理性的な自己をアピールしてるようでさもしい。

 

自分もそういう世界はないだろうと思うが、しかし考えてみると、

肝試しは怖いと思う。やったことないけどやりたくない。

ということは、やはり心の奥では幽玄の世を信じているのではないだろうか。 

 

幽霊をいないと主張する人を集めて、肝試ししてみたらどうなるだろう。

案外、実態は主張と違うのではないだろうか。

カセットテープミュージック

マキタスポーツがBSでやってるカセットテープミュージックというテレビが面白い。

主に80年代のヒット音楽を言葉で解析しようという試み。

今週流れていたのは、80年代ポップスの歌詞についてだった。

 

思い切った発言だったのは

佐野元春のロックは大卒ロック

BOΦWYのロックは高卒ロック

ブルーハーツは高卒に見えて大卒以上の知性を隠しもってるロック

という言葉。

 

ブルーハーツを語りながら本気で目を潤ませるマキタスポーツがなんかすごいと思った。

見逃していた数か月分、何とか見たい。

 

カセットテープと言えば、昔カセットデッキのテレビCMでよくながれていたオープンリール風のカセットテープ。どこに行っても売ってなかった。あれはなんだったんだろう。

ぶりっ子とナルシスト

女性のぶりっ子におけるものは、男においてはナルシストかもしれない。

 

ぶりっ子も一種の自己愛の形だろうと思うので、遠くはないのでは。

 

ぶりっ子のほうは相当嫌われるようだけど、男のナルシストはどうだろう。

 

自分自身、ナルシスト系の人に友人として振り回された経験があるので、ナルシストの男に会うと自然と敬遠してしまう。

 

自己愛の強さや歪みというものは、他者から見ると警戒信号的な何かがあるのかも。

生活感のある外国映画

外国映画を見ていて、その国での暮らしぶりの分かるようなシーンが好きだ。

 

普通の家庭のキッチンや、DIYの様子、子供の遊んでいる様子。

なにげない習慣の違いや、用具の差。

そういうものを見るのが楽しい。

 

そこでその線で好みの映画を検索しても、なかなかコレというものが見つからないことが多い。

 

質問掲示板でやりとりしているのを見ると、回答者と好みが重ならないと難しい様子。

 

 

1995年2月号の文芸春秋マルコポーロは「ナチガス室はなかった」というセンセーショナルな特集が問題を呼び、その後の廃刊につながった。

 

自分はその号を持っていたのだが、後輩に貸したままそれきりになってしまった。きっとその価値は理解されず処分されてしまったろう。

 

そんな注目を集めた号だったが、しかし当時自分が気になったのはその大特集の後の「松本サリンはテロだ」というやや小さな特集だった。河野さんと対談したアメリカの化学兵器の専門家は「犯人はこの後、もっと大きなテロを起こすだろう」と予言していた。

 

そしてその直後のページにオウム真理教の記事が並んでいた。なんとなくその並びが唐突に感じた。しかも、直接松本サリンについてではなかったと思うが、オウム真理教に関してなんらかの関連の捜査が行われているのでは、と憶測しているような内容だったように覚えている。それが妙になにか匂わせぶりに思えた。

 

そしてその二か月後、あの事件は起こった。予言は当たった。

地下鉄サリンの後、オウム真理教に捜査が入ったのはとても早かったと思う。

wikiによると二日後には捜査に入っている。

 

もしかしたら松本サリンはオウムがかかわっているというのは、警察もマスコミの一部も分かっていたのではないだろうか、というのがその時の自分の感想だった。

 

だから

マルコポーロは事前にあのような並びで、二つを結び付けていた。

警察は地下鉄テロの後、すばやくオウムへむかった。

 マスコミはその捜査を中継放送した。

 

もし

松本サリンに対する捜査がもっと早く適切に行われていたら

もし

松本で別人を犯人として目星をつけず、もっと早くオウムにむかっていたら

と思う部分もある。

 

 仮にマルコポーロが本当に松本サリンとオウムを結び付けていて、その上であの予言を発行したとしたら、あの事件に警鐘を鳴らしていた唯一と言えるのではないだろうか。

 

いや、逆にこの特集が彼らの作戦を急がせたかもしれないと思うといまでも背筋が寒くなる。

 

あの号は、ガス室関連の問題で、すぐに回収されたらしい。だから松本サリンの特集とその後のオウムの記事は多くの人の目に触れていないはずだ。予言が的中したことは話題にならずに忘れられた。

 

ジャズアレンジのカラオケ屋あったら行きたい

なんとなく良い音楽が聴きたいけど、とくに当てがない時。

ネットで別ジャンルにアレンジされたビートルズを探して聴くと、大体満たされる。

 

例えばレゲエやクラシックやボサノヴァバージョンはよく見かける。

特にジャズアレンジははずれが少ないと思う。

その筋(ジャズファン)から見ると大したものじゃないのかもしれないけど、

ビートルズファンとしては大変楽しめる。

 

 

ついついいい気分で口ずさんだりしてしまう。きもちよい。

そこで思ったのだけど、ジャズアレンジのカラオケ屋さんがあったら面白いのではないか。

 

スタンダードジャズは敷居が高いけど、

ビートルズストーンズや各種洋楽ヒットポップスや昭和歌謡なら歌いやすそう。

 

大人受けしそうだし、どうだろうか。

日本人全体が割とコミュ障なんじゃないかと思う

 

自分自身得意じゃないけど

 

 

街を歩いてても、互いが関わらないように気をつけている感じ

 

オープンではなく排他的で、閉じた関係性の中で煮詰めていく人間関係

 

 

ネットでは他者否定か自己アピール

 

海外のフォーラムなどを見ると、もっと互いを尊重しているように見える

 

 

「あなたが今歩いている、二十一世紀とはどんな世の中でしょう」

「田中くん、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている、 二十一世紀とは、どんな世の中でしょう。」

 

これは平成元年に、当時の小学校六年生に向けて書かれた。

とするとその六年生たちは今42歳だろうか。

氷河期後期世代くらいか。

 

news.livedoor.com

 

今のインターネットの世界は余りに負のエネルギーに満ちすぎていないか。

 

 

 

買取専門古本屋がなくなって困った

五年ほど前、近所に買取専門の古本屋が開店した。

小規模スーパー跡の路面テナントに現れた。

 

なぜ買取専門かと思っていたが、販売はアマゾンの上だけらしい。

店頭販売に手をかけるよりも、アマゾン通販に絞った方が効率よいのだろう。

 

たまった本を少し持っていくと、PCの「アマゾンなんとか」というソフトでバーコードを読み取って、画面で何かの情報を見ている。

値付けのための参考価格だろうか。

そんなソフトが出回っているということは、こういう商売が一定に存在しているのか。

それともオリジナルのソフトか。

 

段ボール一杯で数千円になった。

ブックオフよりもかなり良い額だろう。

ちょっと変わった専門書が数冊あったのだが、その評価額が高かったようだ。

普通は避けられるだろう専門書のほうが、むしろ高値がつくのかもしれない。

また是非持ってきてください、と言われた。

 

せどりというものを商売として表立ってやっているのだろう。

50代くらいの夫婦が交代で店番している。

 

これはありがたいと思った。

売りたい本がたまっていたが、ブックオフは買取が安すぎる。

私設図書館に寄贈もしたが、なんとなく手ごたえがない。

 

時折、整理をしては運んでいた。

後、三箱分くらい出したら終わり、と思った先日、突然の閉店をしていた。残念無念。

 

新刊本を扱うチェーンの本屋が古本買取をやっているという話を聞いて持ち込んだが、ブックオフと大して変わらない。

 

グーグルで検索しても、近隣に代わりになりそうな店はない。

そして、あのアマゾン何とかというソフトについても情報はない。

買い取り専門店の一時的なブームでもあったのか。

 

いまもグーグルマップにはあの店の画像が載っているのだが、

なんだが不思議な気分でもある。

 

犬を看取って、忘れていたこと。

毛を取っておけば良かった。

ブラシについていたわずかな毛がせめてものひとつまみ。

生きていたんだよという証拠になったのに。