野良馬ヒンヒン

思いつきを記録しています。下らぬものです。

最低賃金は1990年頃に平均約500円だった。今は倍。その間デフレ。でも生活は何故か楽にならない。

最低賃金は1990年頃に平均約500円だった。35年かかって倍になった。さらに同じ額を5年で上げろって無茶だと思う。無理が起これば、しわ寄せが起こる。そこから別の不全が起こる。

 

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むしろ30年低成長&デフレなのに最賃は倍になったのだ。でもなぜか生活は楽にならない。ずっとデフレで物価はあまり上がらなかったのに。

 

なぜか。税金と社会保障費が上がってるからだろう。

 

賃金を上がっても、国に払うものが増えただけ。右から左。

 

そして今、仮に1.5倍にしてもそれは物価が高くなるだけで、やはり生活が楽になるわけではない。高くなった人件費が、物価に反映されるだけ。これもやはり、右から左だ。

 

マクロで経済成長させ続けないかぎり、最賃アップで解決できることは少ないだろう。政治家・経団連・官僚は、自分たちは30年経済成長させない方針でいたくせに、そのツケを時給の現場に押し付けているだけ。無責任。

 

また多くの労働者は労働争議や賃金交渉などリスクの高い行為はせず、高い給料を求めて転職をするわけでもなかった。ならば賃金は上がらないだろう。国も会社も親鳥ではない。雛が鳴いても、口を開けても、餌をくれるわけではない。

 

 

デモテープが聞きたいベテラン:陽水・晴臣・マッカートニー

「実はデモテープが一番素晴らしいんだ」

 

80年代頃、ポール・マッカートニーがやや不調の時代に、関わったプロデューサーがこんなことを言っていた。

 

その人がだれか忘れてしまったけど、ポールがギター一本、ピアノ一つで弾き語ったデモテープは素晴らしいのに、完成した音源は様々なアレンジをやりすぎて散漫になってしまうとのことだったと覚えてる。

 

*

 

確かにその他のベテラン大物アーティストでも、新譜を出すとちょっとアレンジ過剰なのではないかと感じることがある。

 

大物になれば、何でも話が通ってしまい、無理です、と止められることもないのだろう。

 

彼らの若い頃は今より機材の自由が利かず、予算やスケジュールなど様々に制約があり、その中でより良いものを作っていたのだろう。制約が溢れ出る創造性をまとめていたのかもしれない。

 

*

 

ポール以外にも90年代以降の井上陽水や、近年の細野晴臣も少しアレンジ過剰かなという気がする。この三人のデモを聴いてみたいなあ。

 

もしかしたらベテランが額縁に凝るのはよくあることなのかもしれない。焦りだろうか。自分はまだ新しい時代や新しい趣向に付いていけている、と確認するのだろうか。

 

一般人でもこういうことってあるんでしょうかね。天才児たち故に、まだまだ、もっともっととオーバーリーチするのでしょうか。

 

 

 

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CD整理。どうしよう。音楽の今と過去。

両親が終活を始めたのだけど、遅い。先延ばし癖があるので何にも決めずに来た。こちらも多少せかしたけど、自分の死に向き合わせるのが残酷な気がしてあまり積極的ではなかったことに後悔気味。

 

そんなんで自分はどうだろうと振り返ると、自分の家族はいないので自分が末代。せめて自室や周辺のものをどんどん処分しようと考えた。

 

本や古い資料的なものはバンバン捨てたり、買取に出したりできたけど、CDが難しい。

 

正直ほとんどのCDは今後聴く気はない。もうspotifyyoutubeで充分。特に音質にこだわりもない。

 

聴く気がないのだから買取に出せばいいのに、なんだか思い入れもあってまだ出せない。

 

出せない割に場所を取るので、薄いCDファイルのようなものに入れようと考えるけど、それをするとプラケースを捨てることになる。

 

プラケースを捨てると、もし将来買取に出そうとすると買い取ってもらえなくなる…という連想を行ったり来たりで、作業が進まない。

 

さらにケースと中身が違う、ケースに肝心のCDが入っていないなど不備の状態のものも意外と多い。その整理が面倒くさい。どうなってんだ。

 

*

 

90年代、自分が20代の時、CD全盛期。巨大なCDショップや個人の輸入盤屋があちこちにできて、視聴盤コーナーなんて夢のようだった。1日に複数ハシゴしたりした。

 

それは音楽自体が文化の中心にいるようだった。メジャーシーンではミリオンヒットが、インディーシーンでは新しい音楽が次々生まれた。リアルタイムの洋楽も邦楽も多種多様、古い音源もリマスターされた。音楽雑誌は溢れかえり、国内の小さなライブやイベントも、メジャーな洋楽アーチストの来日公演もどんどん実現された。

 

今の50前後の音楽好きはものすごく恵まれた若い時を過ごしていたのだ。何より音楽というジャンル自体が注目を浴びて、輝いているようだった。音楽の神様がいたのだろう。

 

今はどうだろう。誰もが知るような大物洋楽アーチストの来日公演は聞かず、ライブハウスは減少してるという。巨大なCDショップは軒並み閉店した。バンドの物販では音源よりTシャツが売れるという。

 

映像と音楽というと、以前は音源を売るためのPVという映像のあり方だった。音楽が中心で、映像はそのオマケのようなもの。今は音楽が映像の補佐のようなものに思える。

 

少し前まで、若い人たちはイヤホンをして歩いていた。音楽を聴いていたのだろうと思う。今は画面を見て歩き、イヤホンはしていない。映像が文化の主役なのだろう。

 

*

 

CDを片付けながら、売れるものなら売ってしまおうとよぎるけれど、いや待てよ、と手が止まった。

 

これ以上音楽自体に興味が失われる世の中になったら、spotify自体が無くなるということもありえる。あれだけ溢れていたブログ群があっという間に姿を消したのがデジタルサービスの怖さである。

 

spotifyが永遠に続く保証があるだろうか。ダウンロードがあっても、気に入ったものを落としきれるだろうか。やっぱりCDがあった方がいいのでは…とまた片付ける手が進まない夜半であった。

 

 

 

消費税減税の議論、ここまで来た

共産・国民・れいわ・参政「消費減税!」

自民・公明・立民「消費税率維持!」

 

すでに対立軸になっているはずだけど、マスコミもメインに取り上げない。

 

それでもここまで来た。

 

立民の裏には連合あり。今後は連合次第かも。

 

自公立の内、どれか一個が転がれば、急転するのでは。

知られざるゴールドディスク受賞者 Val Garay の世界

Spotifyで「フラー/カズ」というデュオの古いアルバムを気に入った。

 

曲もいいけど、音も気持ち良い。ジャケも良い。

 

如何にも70年代の良い音楽だ。またスクラー/カンケルのリズム隊もシンプルでとてもとてもよい。

 

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それにしても、この音の心地良さはなんだろう。

 

派手じゃないけど、落ち着きがある太い中低音にフォーカスしたサウンド

 

ベースとドラムが嫌味なく大きく響いて良く聴こえてくる。目の前にいるようだ。

 

普段は余りそういう観点で音楽を聞かない自分だけど、どうも気になる。調べるとプロデュース/エンジニアは Val Garay  ヴァル•ギャレイ と言う人らしい。

 

他に代表作にはジェームステイラーやリンダロンシュタットも。どちらも良いアルバム。特にjtは最高でした。

 

 

 

 

 

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他には日本人バンドの、あのEZOも。

 

日本語ではほとんど検索結果がないけれど、100以上のゴールドディスクがあると言う。スタンフォード大学の医学部を中退して音楽の道へ入ったと言うから、そもそも相当優秀な人なのでしょう。意外に知られていない偉人でした。いやほんと、知らないことばっかり。

 

www.valgaray.com

 

Spotifyで「フラー/カズ」というデュオの古いアルバムを気に入った。

 

曲もいいけど、音も気持ち良い。ジャケも良い。

 

如何にも70年代の良い音楽だ。

 

open.spotify.com

 

それにしても、この音の心地良さはなんだろう。

 

派手じゃないけど、落ち着きがある太い中低音にフォーカスしたサウンド

 

ベースとドラムが嫌味なく大きく響いて良く聴こえてくる。

 

普段は余りそういう観点で音楽を聞かない自分だけど、どうも気になる。調べるとプロデュース/エンジニアは Val Garay  ヴァル•ギャレイ と言う人らしい。

 

他に代表作にはジェームステイラーやリンダロンシュタットも。どちらも良いアルバム。特にjtは最高でした。

 

 

 

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日本語ではほとんど検索結果がないけれど、100以上のゴールドディスクがあると言う。意外に知られていない偉人でした。いやほんと、知らないことばっかり。

 

www.valgaray.com

 

郊外の昼飯プロブレム

最近、平日昼時の郊外のファミレスに訪れた時に、あまりに混みあっていて驚いてしまった。

 

二軒訪ねて、二軒とも満席でレジ前で人が待ってる。数週間後にも同じような目にあった。

 

そもそも個人店が好きなので、知ってる店を巡ったところ、二軒の個人店が閉店していたので、しかたなくファミレスに向かったのだが、上のような状況。

 

はて数年前はこの地域で、こんなに混んでいたかなと思った。

 

*

 

たったこれだけの体験からだけど、もしかして多くの小さな飲食店がコロナ不況、もしくはコロナ後の色々で閉店してしまったのか。

 

いやコロナだけではなく、個人や中小零細の事業はこの30年、ずっと向かい風の中だった。

 

その上、インボイスだの電子帳簿保存法など、小面倒くさい規制が次々やってくる。閉店しても当然である。

 

もしかしたら平日昼にしてこのファミレスの混雑状況は、その余波なのではないかと妄想する。

 

*

 

ネット上には「家賃を払っていない味」などという嫌な言葉がある。昔から続いている飲食店は店舗の償却が終わり、不動産経費を価格に転嫁しないで済むので、安くておいしい食べ物が出せるが、しかしそれは採算度外視で競争の平等性を欠いているという考え方だ。

 

togetter.com

小さな個人店が家族経営で長年かけて、不動産の借金を返し、その分を安さと美味しさとして客にサービスをすることの何が悪いのか理解できない。そこまで見越して、これまで採算を取ってきたのだ。

 

これが会社組織ならどうだろう。自社ビルを建て借金を返し、テナント料をセーブすることで高いサービスを提供するとしたら、長期的視野のビジネスモデルとして褒められるのではないだろうか。

 

個人店だから下に見ているような気がして、気持ちが悪い。批判を書いている人間たちの中で、数十年にわたり経営をしたことがあるのはどれくらいいるだろうか。

 

*

 

そういう個人店が軒並み消えて結果、大資本のファミレスに集中しているのではないだろうか。

 

*

 

はてなには小さな事業に厳しい人間が多い。

 

el-bronco.hatenablog.com

 

しかし小さい店であっても、選択肢が減れば需給の関係から、客側がサービスを受けづらくなることもあり得る。サービス側が優位にもなりえる。だからこそ、小さな事業を育てるようにしなければならない。

 

今後は人口が今以上に減少し、サービス提供者の数は減っていく。大事にしないと自分が不便になっていく。

 

 

 

なんでブコメは中小零細に厳しいのかね

普段割とリベラル寄りの意見の強く見える(主観)はてブにおいて、なぜ中小零細事業者に対しては苛烈な自己責任論が多数派になるのか興味深い。

 

なぜだろうか。

 

自分の財布や利便性を握られたらイチコロなのだろうか。

 

とにかく経営側というものは中小零細であろうと「強者」側に見えてしまうのだろうか。

 

「冷徹なオレ」に見られたいネオリベワナビーなのだろうか。

 

 

b.hatena.ne.jp

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映画「コヴェナント」のあの歌の意味

半月くらい前に「コヴェナント/約束の救出」という映画を見た。休日に時間が空いたのでなんとなく映画館に行ってみた。

 

 

 

2018年のアフガニスタンが部隊。タリバンがゲリラ化して潜んでいる中、米軍キャンプでは現地人の通訳兼案内役コーディネーターを雇い入れている。

 

米軍に雇われる通訳というのは、なかなか難しい立場になる。タリバンからは完全な裏切り者だし、現地の市民からも異教徒への協力者と見なされるし、米軍からもスパイかもしれないと半信半疑の扱いをされる。

 

しかしながらアメリカへ渡れるヴィザがもらえるという約束で通訳を買って出た人たちが数千人という単位でいたらしい。

 

タリバンの武器倉庫を掃討する作戦部隊にも、あたらしい通訳のアーメッドが雇われた。しかしその作戦中、ほとんどのアメリカ軍兵士は討たれる。アーメッドと隊長(曹長?)の二人だけが辛うじて生き延び、砂漠化した山を越え安全地帯まで逃げようとする。

 

荒れ地にて、追うタリバンと延々と続く攻防の中、隊長は銃撃を受け瀕死の状態になる。よって米軍キャンプの方角に向けて、アーメッド一人で隊長を運んでいくというハードな道のり。息の詰まるような緊張が続く。

 

続きは映画館で見られたしと思う。始まって間もなくから続く張り詰めるような展開に少し後悔したが、映画が終わった後の見応えは素晴らしかった。

 

*

 

ところでこの映画が始まってすぐにアメリカ(というグループ名)の「名前のない馬」という1971年ころのヒット曲が流れる。

 

なぜ穏やかな曲調で、年代的にもズレいてるこの曲なのかなと思ったけれど、帰って歌詞を検索したら謎が解けたような気がする。

 

歌詞の内容は

「俺は名前のない馬に乗って砂漠を旅する」

という独白調のものだった。

 

映画と近い内容だ。

 

「名前のない馬」というのは、その存在が広く知られることもなかった現地人通訳たちという存在だったり、この部隊のアーメッド当人をアンサングヒーローとしてたとえる暗喩だろう。

 

ただちょっと待てよ…アメリカ軍人はほぼ現地通訳人に助けられていて、「俺は」といえるほど主体的に旅をしただろうか…と考えると皮肉である。

 

アフガンの現地人通訳たちの多くは実際にアメリカのヴィザはもらえずに、数百人の通訳とその家族がタリバンに殺されたという。

 

そしてそれを歌っているグループの名前は、これまた皮肉にも「アメリカ」なのである。

 

*

 

アメリカというグループはロンドンの米軍居留地アメリカンスクールに通う、米空軍の子弟が三人集まったグループだというのも、なんだか不思議な偶然に思える。

 

 

 

 

 

アメリカ (バンド)

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB_(%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

PERFECT DAYSを観てきた ~人生の影と見えないもの、消えゆくもの

話題のヴェンダース役所広司の映画、パーフェクトデイズを観てきた。

面白かった。

 

*

 

役所広司演ずる平山は、スカイツリー周辺の古いアパートに一人で暮らすトイレの掃除夫。

 

無口だが仕事熱心な職人肌。朝起きて布団をたたみ、盆栽に霧を拭いて、きちんと身支度をして表に出る。小さな自販機で買う朝食代わりの缶コーヒーを飲み、軽バンに乗り込み現場に向かう。きっちり仕事を仕上げたら、夕方は銭湯へ。その後、飲み屋で一杯という毎日を崩さない。

 

*

 

外国人監督が東京を撮ると、こういう映画になるのかという場面が多い。陰影の深い街、特に東京の東側の下町は、もう一人の主人公に見える。

 

特に初っ端の数カットは見慣れてるはずの町の風景。だがどこからしら光陰の射し方や色合いや角度が違う。外国人監督だからだろうか。なんとなくおとぎ話の入り口に見える

 

多くのシーンの柔らかく明るい映像が印象的だが、反対に中心にあるイメージはおそらく「影」。

 

例えば平山が眠るときに見るモノクロの夢。フィルムのコンパクトカメラで撮る木洩れ日。木陰をもたらす神社。ラストで行われる行為。平山が就いている仕事は社会の日陰の仕事だし、主な舞台となる東京の東側というのは、東京の影の部分と言えなくもない。

 

そして平山の暮らしの中にあるものは、うつろう影のようにやがて消えてゆくが多い。フィルムカメラ、現像屋、下町、銭湯、カセットテープ、古本、本、古いアパート…。下町に近づく再開発の予感もなくはない。

 

さらに外国人から見ると日本にしかないものがモチーフになっている。軽自動車、きれいな公衆トイレ、神社、ドリンクの自販機、缶コーヒー、畳の部屋。これもこじつければ、西洋から見た東洋という傘の影の下の文化なのかもしれない。

 

こうした題材を集めて無理なくつなげ、何か起こりそうで起こらない、予感に満ちた物語。観る側がイメージや憶測で物語の背景や、その後を膨らませるタイプの映画。

 

何も起こらないというのは、物語の展開を軸にするのではなく、人物と生活、設定をそのまま見て欲しいということだろう。

 

そういえば主人公には職場の仕事仲間以外に友人というものがいない。昔の大人は友達友達と言わなかった気がする。平山には一人自立している様子がある。そもそも人間は一人では幸せにはなれないのだろうか。平山の最後の笑顔が印象的だ。

 

古き良き日本人の生活と気質、消えゆく生活。コレを日本人が撮ってもあまり話題にならないかもしれないけど、こうやってヴェンダース役所広司に見せられるとやっぱり新鮮で良い。

 

*

 

平山が聴いている(=劇中に流れる)音楽もとても良い。アニマルズ、ルー・リードパティ・スミスヴァン・モリソン…。特にルー・リードのアルバム『トランスフォーマー』は印象的に劇中に登場し、アルバムからのパーフェクトデイという曲が映画の題名になっている。

 

youtu.be

 

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陰鬱なメロディで始まる歌は、なんということのない、それでいて美しい休日を描写しながら始まる。

 

Just a perfect day Drink Sangria in the park

完璧な一日さ 公園でサンガリアを飲んだり

 

(中略)

I thought I was someone else, someone good

もっと素晴らしい誰かのように、自分を感じることができたよ

 

そして解放されたように高らかに

 

you just keep me hunging on

 

と歌われる。

 

訳詞方は色々あると思うが、

 

君のおかげで生きていられる…

 

という感じだろうか。

 

とてもおすすめ。

近隣の楽器屋さんがほとんど島村楽器になっていた

たまには楽器屋さんでも覗こうかと検索すると、ほとんど島村楽器

それ以外の楽器屋さんは自分には無関係のジャンルのものだけ。

 

あとは〇〇鑑定団的なところが、中古楽器屋の役割を果たしている様子。

多様性が無くなりました。

 

いやいや、まだ島村や鑑定団が行ける範囲で有ることは、恵まれているのだろう。

今後、それすら厳しいなんてことも、ありえなくない。

楽器なんて贅沢な趣味、になってきているのかもしれない。

こわいわ・・・

The Rolling Stones | Sweet Sounds Of Heaven (Edit) | Feat. Lady Gaga & Stevie Wonder

これこれ、こういうのを30年オレは待ってたのよ‥‥。

 

最後?に名曲。黄金の70年代的なグルーヴィーなソウルブルース。

ありがとう!

 

先日はジャケットがダサいとか言ってすいませんでした。

 

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90年代以降、ローリングストーンズのジャケットがダサい。

90年代以降、ローリングストーンズのジャケットがダサい。

 

毎回ガッカリするのだが、案外触れている人がいない。

 

個人的には81年の「タトゥーユー」はかっこよかったと思うが、それ以降のオリジナルアルバムのデザインは好みじゃない。

 

あなたの感想ですよねと言われればその通り。

 

人の仕事にごちゃごちゃ言うなと言うのもまた然り。

 

しかし期待して長年待ってコレか〜という気持ちになる。

 

そもそも中心メンバーのキースリチャーズ自身が、近作のアートワークはどんどん悪くなると諦め風に語っていた。(しかし近作といっても、ここで取り上げたものは期間で考えると、彼らの歴史の半分以上の30年間くらい及ぶのだ。恐ろしい)

 

不満があるのは、自分とキースだけなのだろうか。

 

 

特に89年の「スティールホイールズ」以降のつまらなさが残念。

ベスト盤みたいな味気なさ。久しぶりのオリジナルアルバムということで、当時勇んだものの、ジャケットがつまらなくて萎えた。

 

 

 

続いて94年の「ヴードゥーラウンジ」。虫人間が踊ってるぞ。

ガッカリびっくり。これも安っぽいし、かっこよくない。よく反対意見が出ないな。

 

 

97年「ブリッジズ トゥ バビロン」。力は入ってますけど、アゴがエキゾチックなライオンの絵。意味不明。少年漫画に出てきそう。

 

 

 

次は「ビガーバン」。05年。宗教画風に驚いているメンバーの絵。これも個人的には「何なの?」という感じ。こっちが驚いた。

 

極め付けは「ブルー&ロンサム」。16年。

これはブルースのカバー集で、内容は素晴らしい。なのに単に青いベロ。助けて。

 

 

そして今年、もしかしたら最後の可能性も高い、ニューアルバム。「ハックニーダイアモンズ」。 昔のデパートや化粧品の広告みたい。資生堂とか。

 

 

 

 

ただ編集盤はむしろかっこいいし、キースのソロもずっとカッコ良い。

 

 

 

 

 


オリジナルアルバムのイラスト路線のジャケットはもしかしてミックが決めているのではないか、と踏んでいる。

コレがミックのファーストソロのジャケット。

 

やっぱり戦犯はミックだと思う。

 

 

 

映画「君たちはどう生きるか」と考察ブーム

映画「君たちはどう生きるか」を観てきました。観客たった5人。

 

凡人からすると「狂人の美しい夢」をのぞいているようなわけのわからなさだった。

 

ただ面白いことは面白い。映像、キャラクター、細かな背景の楽しさにも引き込まれる。

 

おそらくは暗喩にまみれているのだろうけど、物語そのものをストレートに理解して感動できた人はどれくらいいるのだろう。

 

そこで帰ってきて様々な考察を見ると、なるほどなあと思うことしきり。これはこれで面白い。

 

反面、考察がないと飲み込めない表現というのも抽象度高すぎではないかという疑問も起こる。

 

メッセージがあればまっすぐ文章に書けば良い。その方が誤解が少ない。

 

しかしながら物語仕立てにしてしまうのは、アニメ作家の性なのだろうけど。

 

音楽は究極的には個人の中で消費されるが、物語は考察を通じて多くの人で掘り下げることができるのは大きな魅力。

 

これは小学校の国語の教科書から我々はやり続けていることでもある。

 

だけどやがて考察任せのようなものは、行き過ぎという声も出てくるのではないだろうか。