犬を散歩していたら呼び止められた。
秋口の夕方、いつもと違うところへ犬を連れて行ってやりたくて、大きな神社をめがけて歩いていた。その神社の手前の小学校を大きく曲がった先だった。
民間のマンションだが、少し古くて質素な作りの集合住宅がいくつか集まっていた。その前に一人女性が佇んでいた。
ひょろりとした植物のようだった。
細い声で、すいません、と声がした。彼女は眼が悪いらしく、杖をついて、薄く色づいた眼鏡を掛けていた。
このあたりにある○○マンションのX棟のある部屋へ行きたい。駅からここまで来たが、肝心の部屋まではたどり着けないので、案内をして欲しいという。
駅からここまでは上り坂で500mほどある。この盲目の細い女性が杖を突きながらやってきたかと思うと、不憫である。もちろん快諾し、二の腕を差し出し持ってもらった。
場所を確かめ、おそらくそこであろう、外から見える窓の様子では、夕刻にしては灯りもなく暗い。ひょっとしたら留守かもしれませんと伝えると、構わない、部屋の前で待つから、という。
犬は一階の手すりにつなぎ、三階にある部屋の前まで彼女とともに上がる。頼まれてインターフォンを押すが、反応はない。彼女とともにまとうかと思案したが、犬が心配であり、彼女もどうぞおかまいなく、ありがとうございました、というので失礼した。
小柄な目の不自由な女性を夜にさしかかる時刻、暗いマンションのフロアに残していくのは心残りだった。階段を下りながら振り返ると、すっとドアの横に彼女がうつむき加減に、ただ立っていた。さよなら。ありがとう、さよなら。
何か胸の中に残った。
普段しないようなボランティア的な行為をした気分の高揚もあった。
しかし彼女の不思議な存在感にすこし圧倒されていた。
静かな語り口、今にも倒れそうな細い身体。
なによりも、あたりまえのように他人に対して全てを投げ出すという姿勢。
初めて会った人間に、頼みごとをしなければ、町を思うようにあるくことすら困難。意地悪をしようという悪人がいたらひとたまりもない。
しかしその中を彼女はやってきた。その日だけでなく、それまでも、それからもずっと。その諦念のようなものに、当てられてしまった。いままで出会ったことの無いような存在だった。
それは人の身体、ではなく、人の心そのものがそこに立っているようだった。眼が見えないということは、心がむき出しに立っているようなものなのか、そう感じた。
一階に戻り犬とともに家路についた。もう夜だった。歩きながら考えた。あの部屋の主は誰だったのだろう。こんな時間に初めて訪ねるあの部屋。彼女の誰だったのだろう。もし恋人なら幸せになってほしい。勝手にそう思った。
もしも自分が眼が見えなかったら、と考えた。眼が見えなかったら、何を基に人を好きになるのだろう。少なくとも造作ではないように思う。手で触って顔立ちを確かめたりするかもしれないが、眼が見えるわれわれの感覚とはもちろん違うだろう。
もしこの世に光が無かったら、眼が見えなかったら、容姿ではなく、まず何から人を好きになるのだろう。