前のブログの続きですが、ビートルズはこのセッションの開始早々あんまり和やかではなく、どっちかと言うとトゲトゲした空気で自棄になって悪ノリしているように、自分には見えました。
ではその前は何してたんでしょう。
ゲットバックセッションは69年の初頭ですが、68年の頭から春までのビートルズはインドでヨギ師の下で瞑想の修行をしています。
そこにポールとジョンはアコースティックギターを持ち込んで、曲を書いていました。これが68年秋発売のホワイトアルバムにレコーディングされるのです。
あのアルバムの全体のトーンは、シンプルで静かでアコースティックな感じがします。これは曲が書かれた瞑想目的の静かな環境や、機材がアコギに限られていたということが影響していそうです。
インドから帰ったメンバーはホワイトアルバムの本番のレコーディングに入る前の68年の五月に、イーシャーという土地にあるジョージの家で四人は合宿し、デモテープを作ります。これは和やかに行われたそうです。どうもプロデューサーのジョージ・マーチンからの巣立ちを意識していたようで、これまでに類のない出来事でした。
和やかだった合宿ののちの本番のレコーディングですが、ここに突然オノヨーコが現れます。ジョンとヨーコは愛し合っているので一緒に居たいだけだったらしいのですが、そもそもビートルズの録音現場は部外者は入れないという不文律があったらしく、ヨーコがあまり歓迎されなかったのは予想できます。「ゲットバック」の中でもあまり馴染んでいないようですから、初対面の時はさぞやギスギスしたでしょう。
さらに機材の発達により、四人で同時で一緒に録音する必然性がなくなり、バラバラにレコーディングすることが増えたようです。これを一体感が失なわれたと感じたのか、この時の反省が「ゲットバック」で四人一緒にライブ録音という方針になったと思われます。
68年10月にレコーディングが終わり、11月22日にはホワイトアルバムが発売されました(早いな)。
そして69年の1月2日からゲットバックセッション開始です。間がない。ホワイトアルバムの録音・発売・その後の諸々の事後処理が終わるかどうかくらいで、もうお正月からあのトゲトゲセッション開始です。
ギスギスしたレコーディングが終わり、アルバムが発売となり、羽を伸ばす間もなく、曲を書く間もなく、正月二日から呼び出されて「映画取るから曲録って」と言われたらキツかったでしょうね。
時系列をまとめると、
68年 年頭~春 インドで合宿
5月イーシャーで合宿
夏秋 アビーロードでレコーディング
11月22日 ホワイトアルバム発売
69年 1月2日からゲットバックセッション開始
軋轢のあった前作から間がなさすぎるのです。そりゃ、曲がないよという会話がなされるわけです。もしこの時、半年くらいゆっくりできる時間があれば、案外音楽の歴史は変わっていたのではないでしょうか。
「ゲットバック」の中でも、アレン・クラインという人の名前が出てきますが、新マネージャーのことです。実はデビューから苦楽を共にした敏腕マネージャーである、ブライアンエプスタインがホワイトアルバムレコーディング中に亡くなっていて、この時期はマネージャー不在でした。もしエプスタインが生きていたら、きちんとした計画で事が運んでいたかもしれません。
さらに新マネージャーのクラインはポールとは決裂し契約を結ばず、他三人とのみ契約しました。これが状況の複雑さを助長しました。ポールは奥さんのリンダのお父さんをマネージャーに迎えたかったのですが、おそらく対抗意識のあったジョンはそれを受け入れなかったのではないでしょうか。