世間で使われている利益という言葉と、会計上の利益という言葉はちょっとずれてる気がする。なんとなく世間のほうは粗利と混ざっているように思う。
儲けがたくさん出た、というより、経費とのバランスという視点が必要ではないか。
世間で使われている利益という言葉と、会計上の利益という言葉はちょっとずれてる気がする。なんとなく世間のほうは粗利と混ざっているように思う。
儲けがたくさん出た、というより、経費とのバランスという視点が必要ではないか。
spotifyを使い始めて一週間。
洋楽中心の音楽ファンにはすごいサービスができました。
メジャーなアーティストはもちろん、
え、こんな人まで…というところまでカバーするラインナップ。
南部ソウルファンにはうれしいswamp doggまで網羅していて悶絶しました。
しかし、これだけすごいサービスがたまにCM挟むだけで無料で利用できてしまうのは、なんだかこの先、音楽の世界や世の中はどうなっていくのだろうと、考えてしまった。
昔、レコードという形態で音楽を聴いていた時と、それからCDに移って、ダウンロードになって、聴き放題になって…。
だんだん形というものを失ってしまった。音楽は元々無形だけど、媒体には形があり、遡るほど大きかった。また古い形態ほど、デザイン性が高く、かっこよかった。今思えばLP盤には威厳すらあった。自然にアートが家の中に存在していたようなものだった。今あのようなものは生活の中にない。
特に若い人たちは形のあるものを信じるし、若いうちはそれでしょうがないし、それで良い。そして音楽文化の価値も、媒体の質量や形を失うと同時に、変質してきたようにも思える。それはどういう因果なのだろう。勝手な思い込みか。
それでも、あのLPのカッコよさと音楽の価値の重さはどこかで重なっていたような気もするのだ。それは音楽そのものを否定するような気もするけど、音楽文化としては、そういう側面はあったと思う。
果たしてこの先はどれだけ便利になっていくのかと思うと、ちょっと怖い。
負け組おじさんが無い頭で考えました。
仮に売り上げが減っても経費を切り詰めれば、利益は増えます。
売り上げが増えた上に、さらに経費を切り詰めれば、もっともっと利益は増えます。
利益が多くなると、その分純利益≒「内部留保」が結果として増えます。
逆に経費をバンバン使えば、それは減ります。
しかし人件費なども含めた経費全体を切り詰め緊縮させれば、経済循環に貢献しない。
せっかく法人税を減らして、カネを余計に使いやすくしてやったのに、経費を切り詰めてんじゃないよ、ということではないでしょうか。
経費を引いた後の利益に対し、法人税は掛かります。
よって法人税率が下がれば、当然利益はため込みやすくなります。
だから当たり前の結果であります。
掛け声と結果が矛盾しています。
法人税が高ければ、税金払いたくないから、どうせならバンバン経費使おうぜ、
という方向も出てきます。
だから経費を使わせたければ、法人税をあげなければならない。
なのに下げた。
当然、麻生さんは分かった上でお芝居してらっしゃるのでしょう。
怒られた形の民間企業も財務省も、芝居の一座の一員なのでしょう。
だからしゅんとした顔でもしてみせるのでしょう。
カネのカラクリ夢芝居です。
なぜそんな一座芝居をするのか。
もともと麻生さんは財務省派として知られています。
経済成長を望んでいる方面の人ではありません。
しかし与党幹部がそんな顔もできないので、一応、怒って見せたのでしょう。
商人たちは実をとれればいいので、法人税を下げてもらったから特別文句もありません。
内部留保というのは、資本に組み込まれた後の利益を言います。
そうすると実態は流動資産なのか、固定資産なのか分かりません(分けられません)。
そして会計用語でもないので、なんとなく色々曖昧な言葉です。
分かりにくいくせにキャッチーなので、広く使われるようになった気がします。
内部で、何か(カネか?)を抱え込んでいるようなイメージです。
ですからよく「内部留保は現金ではないぞ」という解説でぶった切り終了になりますが、さかのぼって考えれば、上のような話になります。
ということで、もうあんまり内部留保という言葉で色々説明をするのは良くない気がします。実態を理解するのには誤解を招きやすい気がします。
内部留保が出てくる話の本質は、おそらく(利益率の反対である)経費率を下げてんじゃねーよ、ということです。もっと経費を使いなさいよ、と。そこには、設備投資や労働分配も入ってるのだから、と。
…違うかな。そう理解してます。
ただ麻生さんのはフェイクだと思います。
はがき大の厚紙があったので切手を貼って住所を書いて郵便局へ持っていった。
するとこれではだめだという。
単なる厚紙をハガキとして使う場合、相手先住所面の上端に
「郵便はがき」と記載しないとだめだという。
そうですかと書いて出したけど、必要なルールだろうか。
郵便切手を貼り、郵便番号と住所を書いたハガキ大の厚紙ならわかると思うのだけど。
トム・ぺティが死んじゃった。
まだこれから活躍すると思ってたけど。なんでかなぁ。
この辺が好きだった。90年代。
これはELOのジェフ・リンがプロデュースした繊細なサウンドの一枚。
フォークロックサイドの優しい感じの傑作。
後述のトラヴェリング・ウィルベリーズにちょっと近い。
その次に出たのは、リック・ルービンのプロデュースのワイルドフラワーズ。
太くて生々しいサウンドでルーツより。曲もすべてよしの名盤。
これが一番よく聴いたアルバムか。
のしのし歩んでいくようなリズム隊とそのうえで朴訥につぶやくようなボーカルが印象的で、しばらく飽きずに聴いた。
さみしい。
ディランやジョージやロイオービソンとのトラヴェリングウィルベリーズも楽しい。少しオールディーズ風味のR&R企画ものバンド。
ウィルベリー兄弟も五人中三人が鬼籍か…。
群馬のシャブババアってなんだったんだ。
思い出して眠れなくなってる。
マスコミの都市伝説みたいなものか。
ホモオダホモオの復活が問題になっているけど、テレビやマスコミで
もう他人の特徴や属性をけなしてあざ笑うことが無くなるといいと思う。
嗤いは笑いではない。
ただし自分の感覚としては、己を嗤うのはよし、としたい。
むしろ推奨したい。
***
小学校低学年で漫才ブームだった。
ビートたけしが現れた時は、怖かった。
他のにこやかな笑顔の芸能人とは違って、表情が暗く陰惨だった。
見てはいけないようなものに見えた。
タモリもまた陰鬱であった。
目を隠し、夜から昼の顔になったが、本質は暗そうだった。
60年代の日本のテレビはおそらくアメリカのショービズを真似ていたが、70年代にどんどん身近なバラエティになっていった。ショービズからお茶の間に背景が移っていった。
しかしたけし/タモリ以前の王様が欽ちゃん/ドリフターズであったように、
まだまだある程度枠組みの中での笑いであったと思う。
二人は明るく輝く芸能界や、それを見る清く正しい建前社会をアドリブで揶揄し、嗤った。土着的だった70年代を過ぎても、おっとりしてる他人を嗤った。それを我々は40年近くただ真似し続けている。
その頃の決まり切ったテレビの笑いや、日本人の建前社会に馴染めなかったアウトサイダーだった二人による、笑いのテロリズムだった。それはそのころとしては、重要な出来事であったが、今はもうあまり意味がない。そして二人とももう、文化人となって久しい。
二人のあとも建前や「お約束」を多くの芸人たちが、バラエティーで壊し続けたが、もう何も残っていない。同時に他人への尊重も霧散したようだ。40年も建前や他人をたたき嗤い続けていると殺伐としたリアリズムだ残った。今は一般人も他人を見ると芸人気取りでツッコみ、いじり、叩く時代になった。
たけし/タモリは日本人の笑いの感覚を変えたと思う。それは萩本欽一もそう言っていた。しかしもうあれから40年経ったのだ。テレビや日本人の笑いの感覚はもう一度変わってもいいころだ。
40年テレビでいろんな笑いを見せてもらってきた。欽ちゃん、ドリフ、たけし、タモリ以降も、さんまや所、鶴太郎、伸介、とんねるず、ダウンタウン、ウンナン、爆問…とヒーローたちをあげればきりがない。
笑うというのは恐ろしいものだ。誰かが傷ついていても、笑い声をあげてしまうと、流されてしまう。いやすごく面白いものというのは、もしかしたら誰かが傷つくものなのかもしれない。
もうテレビを見て腹を抱えて笑わなくてもいいと思う。テレビの笑いは一回つまらなくなってもいいと思う。その裏で困る人たちはいるのだろうけど、これまで散々貪ってきただろう。
いまテレビが斜陽で、ネットが隆盛だとする。しかしこれはラジオ・映画とテレビがメディアの天辺を交代したのと同じだろうと思う。今テレビが文化を引っ張る時代は終わり、老いたメディアになりつつある。