野良馬ヒンヒン

思いつきを記録しています。下らぬものです。

嗤いと笑い

ホモオダホモオの復活が問題になっているけど、テレビやマスコミで

もう他人の特徴や属性をけなしてあざ笑うことが無くなるといいと思う。

 

嗤いは笑いではない。

 

ただし自分の感覚としては、己を嗤うのはよし、としたい。

むしろ推奨したい。

 

***

 

小学校低学年で漫才ブームだった。

ビートたけしが現れた時は、怖かった。

他のにこやかな笑顔の芸能人とは違って、表情が暗く陰惨だった。

見てはいけないようなものに見えた。

 

タモリもまた陰鬱であった。

目を隠し、夜から昼の顔になったが、本質は暗そうだった。

 

60年代の日本のテレビはおそらくアメリカのショービズを真似ていたが、70年代にどんどん身近なバラエティになっていった。ショービズからお茶の間に背景が移っていった。

 

しかしたけし/タモリ以前の王様が欽ちゃん/ドリフターズであったように、

まだまだある程度枠組みの中での笑いであったと思う。

 

二人は明るく輝く芸能界や、それを見る清く正しい建前社会をアドリブで揶揄し、嗤った。土着的だった70年代を過ぎても、おっとりしてる他人を嗤った。それを我々は40年近くただ真似し続けている。

 

 

 

 その頃の決まり切ったテレビの笑いや、日本人の建前社会に馴染めなかったアウトサイダーだった二人による、笑いのテロリズムだった。それはそのころとしては、重要な出来事であったが、今はもうあまり意味がない。そして二人とももう、文化人となって久しい。

 

二人のあとも建前や「お約束」を多くの芸人たちが、バラエティーで壊し続けたが、もう何も残っていない。同時に他人への尊重も霧散したようだ。40年も建前や他人をたたき嗤い続けていると殺伐としたリアリズムだ残った。今は一般人も他人を見ると芸人気取りでツッコみ、いじり、叩く時代になった。

 

たけし/タモリは日本人の笑いの感覚を変えたと思う。それは萩本欽一もそう言っていた。しかしもうあれから40年経ったのだ。テレビや日本人の笑いの感覚はもう一度変わってもいいころだ。

 

40年テレビでいろんな笑いを見せてもらってきた。欽ちゃん、ドリフ、たけし、タモリ以降も、さんまや所、鶴太郎、伸介、とんねるずダウンタウンウンナン、爆問…とヒーローたちをあげればきりがない。

 

笑うというのは恐ろしいものだ。誰かが傷ついていても、笑い声をあげてしまうと、流されてしまう。いやすごく面白いものというのは、もしかしたら誰かが傷つくものなのかもしれない。

 

もうテレビを見て腹を抱えて笑わなくてもいいと思う。テレビの笑いは一回つまらなくなってもいいと思う。その裏で困る人たちはいるのだろうけど、これまで散々貪ってきただろう。

 

 いまテレビが斜陽で、ネットが隆盛だとする。しかしこれはラジオ・映画とテレビがメディアの天辺を交代したのと同じだろうと思う。今テレビが文化を引っ張る時代は終わり、老いたメディアになりつつある。