野良馬ヒンヒン

思いつきを記録しています。下らぬものです。

コロンバイン高校の事件から今年で20年。

今年の四月二十日でコロンバイン高校の事件から20年経ったという。

 

その二人の犯人の同窓生だった人の書いた本を読んだ。彼から見ると主犯と見られるエリックはトラブルメーカーで困った存在だったが、従属的であった共犯者のディランは近年までは親友だった。

 

事件の起こる少し前、エリックは自ら起こしたトラブルを起因に、著者とその家族を逆恨みし、凄惨な方法での殺害予告をネット上で行っていた。著者家族は20回以上通報したが、警察は動かないという緊張状態が続いた。それなのに若者ゆえの気まぐれか、二人はひょんなことから仲直りする。この関係修復を両親は訝っていたが、結果として著者を救うことになる。

 

事件当日、著者は屋外でタバコを吸っていると、仲直りをしたエリックが大きなバッグを運びながら「お前の事を好きだから、ここを離れろ」と言うので、これに従い一命をとりとめた。バッグには武器が入っていたことを後から知った。

 

エリックとディランの行動の原因は高校でのいじめに対する反撃行為であったとされている。

 

*

 

事件後、警察は著者も共犯ではないかと疑い、メディアで実名を度々挙げた。著者はエリックから殺されると20回以上も警察に通報していたのに。それでいて自分たちは捜査もしなかったのに。その時点で捜査していたら、事件を止められていたかもしれないのに。警察のこの行為により著者家族は、近隣住民や被害者遺族から長く白眼視を受けた。

 

犯人グループ二人は銃器を三人から調達していた。ピザ屋の同僚の一人から購入し、もう一人の同僚には代理購入を依頼した。さらにディランを慕っていた女性にも代理購入を依頼した。彼女を通じて手に入れた銃器が最強の威力をもっていたが、ピザ屋の二人のみが罪に問われ刑に服した。

 

*

 

さらにネットを見てみると、ある男性の名前が登場する。

 

スクールカーストのトップグループのジョック(運動部)の中心であった男。この男が凄惨ないじめを犯人グループの二人にのみでなく、校内で広く行っていたという。この男の存在がなければ、この事件は起こらなかったのではないかという感もある。

 

元々アメリカの学校は、スポーツ優秀者を過剰に賛美し特別扱いする文化があるらしいが、殊更コロンバインではその傾向が強く、レスリングとフットボールの有名選手であったこの男の行為をとがめる教師もいなかったらしい。

 

この男の事を調べると、コロンバインに入る前にすでに警察沙汰を複数回起こしていた様子もあり、またDV家庭で育ったような記述もある。さらに事件後雲隠れしたこの男を指弾し、探し出そうというサイトもある。だが、なにせ全て英語なのでこちらの読解力ではこの男に関する情報の正確さは心もとない。

 

またなぜこのような選手が幅を利かすのかというと、アメリカの教育界では好結果を出すスポーツの監督や顧問が出世しやすいという事実があるためだという。であれば出世を狙う上司の秘蔵っ子を注意し指導する教師は少ないのだろう。スポーツ偏重主義の結果による惨劇とも言えなくない。

 

*

 

ただ、これだけはっきりネット上で非難されているものの、著者の本の中にはこの男の存在は現れない。ネット上での都市伝説やミームのような類なのかもしれないが、これ以上は分からなかった。

 

 

あの着物の広告。何が悪いのだろうか考えてみた。

 

まずハーフの子を望むことも、年収の高いパートナーを望むことも、悪いことではないと思う。

道が開くというのは何を指してるのかよく分からないが、歩きやすさを望むのも別に悪くないだろう。

これが悪いというなら、ネット上に良く見かけるこれらに類する欲望も否定されるべきか。

むしろ現代では個人の欲求として認められていることではないだろうか。

 

では装いと欲望を結びつけることが悪なのか。だとしたらその理由は何か。結びつけ方か。

 

着物とそれらの欲望を結んではいけないのか。

 

もしかして着物は高尚で、これら欲望は低俗なのか。

 

批判してる人も、この広告の中の何が悪いかまでは整理していることは案外少ないと思う。

 

直観的に腹立たしかったのか。

 

それはなぜなのか。

個人事業主の保険の不思議 と最低賃金

身近に個人事業主が多い。

 

個人事業主が仕事中、ケガをしたとする。

すると一般の健康保険は使えない。

 

そこで労災に入ろうとしても、事業主は入れない。

法律で決められていて被雇用者のみしか入れない。

 

しかしなぜか裏技があって、「労災組合」なる組織に加入するか

社会保険労務士を通してだと、事業主でも労災に加入できるらしい。

でも、保険料が結構高い。毎月5000円からだという。

年で6万円だ。安くない。

 

金額はまあいいとしても、なぜ組合や労務士を通さないといけないのか。

なぜそれらに業務を独占させないといけないのか。

その意義が分からない。なぜ自分でやることが認められないのか。

 

こんなのは簡単だ。複数の被雇用者のための労災手続きは書き込むのは一枚だけ。

毎年同じような計算を繰り返す。だから事業主本人でも簡単にできる。

これとたった一人の保険料を計算することが、どれだけ違うというのだろう。

なんか胡散臭い。天下りだの、裏側の話がありそう。

 

そもそも個人事業主本人が国の災害保険になぜ入れないのだろうか。

そこが間違っている。

 

*

 

今、会社に雇われている多くの人には遠い話かもしれないが、今後はどうだろう。

 

ウーバーイーツで働いている人はみな一人親方だという。

こういう形で一人親方制をうまく使って企業は人を雇い始めるかもしれない。

今までは特殊な技能を持った人たちをプロとして一時的に雇っていたかもしれないが、

今後は現在アルバイトのような人たちを「雇用」するのではなく、

一人親方として「契約」していくかもしれない。

すると労災にも入らなくてよい。

 

最低賃金が上がれば、「雇用関係」は減って「契約関係」が増えるかもしれない。

そうすれば「時給」に縛られることが無くなる。

時給以下の契約を結べばよいのだから。

 

果てして「時給」だけの問題だろうか。

じゃあ「月給」は?

 

「契約関係」なら厚生年金や労災保険料を会社は払わなくても良いのではないか。

すると将来的にはどうなっていくのだろう。

 

今後、一人事業主が増えていくかもしれない。

その時、労災はどうなるの?

20代は新しい文化を産んだり、享受したりする現役最前線世代だと思う。30代は少し落ち着いて、でもまだ新しい文化を受け入れ、理解し、楽しめると思う。しかし40代になると、もう新しい文化が分からなくなった。

 

20代の感性からすると40代は、ひと世代どころか、ふた世代以上先の世代になるだろう。

 

隣の世代はまだ理解できても、ふた世代先になると感性的に接点がない感じになった。もう新しい文化の現役世代ではないのだなと思う。

 

 ブログやツイッターあたりまではなんとなく理解していたつもりだが、それ以降のSNSやyoutuberあたりからはもう感覚的に何が良いのか分からない。流行ってるタレントや音楽はずいぶん前から分からない。

 

それでいて、古い物への思慕や興味は年々深まる。街を歩いていても古びた建物や商店へ目が行き、無くなれば嘆く。いつもそこにあり続ける寺社を頼もしく、ありがたく感じる。

 

古いものはすでに評価が定まっているし、当然自分が子供のころから見ている変わらない物でもある。だから安心感があるのだろう。大げさだけど、むしろここへ帰っていくのだという輪廻みたいなものを感じたりする。こうやって年寄りは古いものを愛していくのだなあと思う。まあ元々そういうタイプなんだけど。

 

 

 

薄いノートがほしい

30枚つづりのよくある大学ノートだと、

後ろの方はあまり使わないで終わってしまう。

それが数冊あるとかさばってしまう。

 

そこで「薄いノート」で検索すると、

紙自体が薄いノートは出てくる。

 

普通のノートで紙の枚数が少ないもので良いのだ。

10枚つづりで半額くらいならどうだろうか。

そのほうが、手軽に新しいノートをおろせて、場所や紙の無駄にならない。

 

またノートを買うのが好き、という層もいると思う。

デザインや色の違うノートを、何種類も買いたいという文具好きにも受けないだろうか。

カセットの歌詞カードのにおい

中一くらいの時、カセットテープに吹き込まれた音楽テープを買った。

CDはまだなかったし、レコードは針が摩耗するのが財布に痛かったので。

 

最初に買ったのはビートルズのバラードベスト20。

イラストが魅惑的なジャケットだった。

一曲目のイエスタデイで、完全にノックアウトされて夢中になった。

次に買ったのはやっぱりビートルズの青盤というベスト。

シビレまくった。

 

思い出すのは、そのカセットの中に入っていた緑色の歌詞カードの紙。

油紙のような手触りと薄さ。印字してある活字も含めて、

なんとなく上品で好きだった。

その紙が独特にいい匂いだった。

その後、あれに似たにおいにまだであったことがない。

 

自分の姉は内弁慶で家庭内では我がままでギャンギャン自己主張する方だった。

五歳下の弟の自分にも対等に攻撃してきたし、こちらもなつかなかった。

 

自分が小中学生のころは男女仲が悪いというか

なんとなくいつも対立しているのが普通だった。

女子はいつもキーキーしてるというイメージ。

 自分の学校だけだったのだろうか。世代差や土地柄とかもあるのか。

 

高校は男子校だった。

 

でも大学で出会った女の子たちは、おおらかで親切な優しい人が多かった。

姉と中学女子のイメージしかなかったので、最初は凄く戸惑った。

たまたま自分の属していた集まりのおかげかもしれないけど。

 

ところが社会に出ると女性はまた冷たく、厳しい。警戒心の塊に見えた。

こちらのスペックの低さも責任もあると思うけど、再び戸惑う。

毒虫のように扱われるとへこむ。

社会に出てからは女性のイメージは基本的にずっと変わらない。

 

もし自分に大学時代の彼女たちとの交流が無かったらと思うと怖い。

きっと女嫌い、ミサンドリーになっていたと思う。
キツイ人と出くわすと、いやああいう優しい人たちも

世間のどこかにいるのだと思い出す。

もう会うこともないけど、あのころの会った人たちに感謝したい。

 

フォークの季節かな

最近、優先でよく聴く「北千住駅の~」という女性ボーカルの歌、

すごく良いというわけではなかったのだけどなんとなく、

全体の節回しが頭に残っている感じ。

気になるなーと思っていたら、これがあいみょんの歌だった。

ハレノヒ。

その後ラジオで流れていた「マリーゴールド」という歌も良かった。

 

何がいいんだろうと考える。

メロディの節回し、歌いまわしが自然に耳に入ってきて落ち着く。

歌詞は聞き取れない部分もあるからよく分からない。

特別なサウンドでもない。むしろ控えめなアレンジだ。

調べてみるとコードもダイアトニック内でほとんど済んでいる模様。

多分、そのシンプルなところがいいんだろう。

フォークソングなのだ。

 

歌とギターとシンプルなメロディとコード。

これで成り立つ。そしてそれが心地よい。

そしてきっとみんな水準が高いのだろう。

グッナイ小形といい、フォークの季節が巡って来てるのかもしれない。

最低賃金じゃ生活が成り立たない、ということだけど、その主旨は分かる。

だが逆に見ると、アルバイト労働とは生活が成り立たない程度の付加価値しか残せないものなのだ、ということにならないだろうか。そもそも時給仕事で生活していこうという生活設計が、厳しい話にも思える。

 

月給取りの正社員は、お前の給料に見合うだけの売り上げを上げろ、付加価値をつけろとノルマなり目標なりある程度の基準がある。

 

しかし時給で働くということは、安いかもしれないけど厳しいノルマはなしでいいよ、ということでもある。

 

時給でノルマがあるというのは、それはもちろんオカシイ。コンビニでケーキの売上ノルマがあるのはオカシイと思う。が、それは時給とはまた別の労働問題でもある。

 

仮に1500円欲しいとなったら、自分の働きにはそれだけの価値があると毎時間実証できるだろうか。1500円x8時間x20日で24万円。月の給料は正社員並みになってくる。与えられるものが高くなれば、当然、求められるものも高くなる。

 

それでも時給で働いて、なおかつ高い時給がほしい、という働き方をしたい人もいるだろう。それは高いハードルを越える自信があるのだろう。

 

しかし全ての時給労働者が、最低賃金を今の1.5倍に望むというのは難しいのではないか。

 

いや、私はゆっくり時給900円で働きたかったという人も、働く口がなくならないか。900円の労働レベルで働きたいという人が集まっていた事業所が、経営をあきらめることにならないか。働き方の多様性もなくなっていく。

 

基準に満たない人はお断りになるだろう。時給労働者にも成果主義が導入されるだろう。そうしなければ正社員労働者から圧力がかかるだろう。

 

問題はそこなのだ。時給労働者の最低賃金という分かりやすい、飛びつきやすいネタが盛り上がっているが、正社員の給料がそもそも安いのだ。しかしそれは各会社の問題だ。

 

そしてまた、アルバイトでノルマ低く責任なく、時給のみで暮らしていきたいという希望も、やや甘すぎるのではないだろうか。もともと以前から厳しい話なのだ。

 

いろんな事情で、望まないのにそうせざるをない人もいるだろう。しかしそれはもはやセーフティネットの問題であって、そっちで対処すべき話だ。時給を上げる話とは別。

 

はてブの有能そうなブコメの皆さんやツイッターからは、この話題になるとたびたび「それくらい払えない企業はお払い箱へ」的なご意見が散見される。

 

しかしながら、その優秀で沢山いるらしい時給1500円主義者が集まって、一つの事業を立ち上げ、高時給でも経営は成り立つという実証をしてやるという話は聞いたことがない。データや実績やノウハウをフィードバックすれば社会的にも有意義だ。

 

優秀で熱意もある人たちが集まっても実現できないことを、他人に強いるというのは虫が良すぎないか。

 

ZOZOタウンが高い時給で求人した。これは良いことだと思う。そうやって良い人材が高い給料をとることは良い。それを企業自らが行うのは良いこと。また山本太郎システムも良いと思う。

 

しかしそれと最低時給を一律1.5倍以上にするというのは、別だと思う。

 

1500円の付加価値に満たない人間は振り落とされ、残った人間は重いノルマと労働量に苦しむ。それをこなせるスーパーアルバイター以外の人間には労働は認められない。すると生活保護に落ちていくしかない。

 

より厳しいディストピアがやってくるかもしれない。その程度ができない企業がお払い箱になるということは、その程度のことができない人もお払い箱になるのだ。

 

 

 

 

どうでもよい話。

 

昔、内館牧子脚本の「想い出にかわるまで」というドラマがあって、

姉妹で男を取り合うという内容だった。

一度も見ていないのに、なぜか内容を覚えているくらい大ヒットしたはず。

 

そこに財津和夫が出ていたらしいのだけど、

その役は当初、元頭脳警察PANTAにオファーがあったのだが実現しなかった、

というトリビアを思い出したものの、単なる噂だったのか、

もしくは自分の思い違いだったかもしれず、

ネットにも類する話はなく、真偽は定かではない。

 

1971年:紫ふとんブーム

近所のふとん屋さんは昭和46年の紫ふとんブームで儲かったという話を家族がしていたので、なんだそのブームはと思い検索してみた。

 

なんでも亥年に紫のふとんで寝ると健康長寿になるという言い伝えがあり、特にこの年は60年に一度の釵釧金(さいせんきん=十干十二支の組み合わせの一つ)の亥年という最適年だったらしく、全国的な大ブームとなった様子。

 

今年は亥年ですが、もうだれもそんな話はしてませんね。

 

このあたりにちらっと触れられています。

https://www.nishikawa1566.com/company/history/09.html

https://www.futon.or.jp/jfma-history/