価値、というものは、自ら作り出すものと、他者が作るものとあります。
自分が作る価値というのは、なかなかはっきり定義しづらいのですが、たとえば具体的にモノを作る。それを売っても売らなくても、モノと作り出したという価値になります。
サービスでもそうです。プロのサービス業でなら、わかりやすいです。そうでなくても、家事をすれば家族が喜ぶ。これも価値を生み出しています。
そこにいてくれさえすればいい、という人間関係があれば、そこにいることが価値になります。
自分で自分を喜ばせれば、自分にとって自分の行動は価値があります。
・・・ということで自分で作り出す価値というのは、無形のものも多いのではっきりと語りつくせません。
他者が作る価値はもう少し、わかりやすいかもしれません。生活していれば、他者が作ったモノを手に入れることも多いです。
例えば、カッコいい物を買ってきて身に着ける。すごいスペックのスマホを手に入れる。これは他人が作った価値を身に着けて満足している状態です。
自分が作り出した価値、ではなく、他人が作った価値です。これをステイタス、と自分は考えます。他人の作ったステイタスを、お金を出して身に着けて満足する。だれにでもあることです。
また自分で価値を作り出す人は、他人の作った価値を欲しがる必要もないでしょう。
しかし、世間にはそれに夢中になっている人もいます。それでなくては満足できない。上から下まで、価値あるもので揃えたい・・・みたいな。
人間は足りないものほど強く欲します。欠乏症というものです。高級なもの、ハイデザインのもの、ハイスペックのもの・・・それを強烈に欲しがる人というのは、そういった価値が自らの中に足りないという劣等意識が無意識の中にあるのではないでしょうか。
こうなるとステイタス依存症です。ステイタス〇〇〇です。(品が悪く受け取られるので避けます)
それが悪い、と否定する根拠は今のところないので、なんとなく違和感を感じるというところです。
そうしたステイタスの快感に飲みこまれると、感覚が洗練化されていきます。もっと良いものを、もっともっと・・・という状態です。こだわりが生まれていきます。
こだわりが強くなることも一種の依存状態を生みたします。中毒です。個人的には、こだわりの強い人からは「ウツ」の影を感じることが多いです。
こだわりや、ステイタス欠乏症にの裏には、深いウツの穴が開いているような気がしてならないのです。自分にもそういう傾向が多少あるのでわかるのです。