選んでるようで選ばされてる
若いころ営業で外回りをしていた時期があった。
最初楽しみは昼飯くらいだったが、すぐに苦しくなった。
ゆっくり昼食なんて言う余裕はないので、
そのころすでに少なくなっていた個人店なんか探してられない。
選択肢は大概どこにでもあるファーストフードだ。
最初は自由に自分で昼飯を選べると思っていたが、結局同じような早い安いチェーン店のものしか食べられない。文字通り食傷する。
選んでいるようで、それしかないという状況のなかで、選ばされてるという感じ。
友人は若いころパチンコ漬けだった。
家にいないときはパチ屋にいた。
カネを払って一日中玉をはじいた。
今のビットコインのマイニングというのは、わずかな報酬のために、
自分のパソコンを提供し、システム維持に貢献するのだという。
あの頃の友人もパチンコをやめられなくなっていたが、
パチンコ屋の維持のため、カネを払って労働していたようにも思える。
自分の意志で店に行ってるというよりも、洗脳されていた依存症患者のようだった。
見えない糸で店に引っ張られるように。
先日の選挙は大体半分の人が行かなかった。
テレビを見ると、自分が行っても変わらないからという人が多い。
選挙に行ってもいかなくても変わらない、自分の一票で左右しない、
という意識を誰かに植え付けられてるとしたらどうだろう。
その「選択」は、誰に都合がいいだろう。
こういう国民が完成したことを、その誰かさんたちは隠れてニヤニヤ喜んでいるのではないか。
自分の意志で行っていないんだ、という得意そうな顔つきだったけど、
そういう行動を無意識のうちに強いられコントロールされてるように見える。
誇らしげな奴隷である。
誰かさんたちにとっては素直な園児のような層だろう。
ネットの中にはいろんな意見があるけど、
やっぱりその中に流行もあって、今はこういう見方が多いんだと感じることもある。
なにかの拍子に手のひら返しが起こったり。
こういう人たちも、結局自分で自分の言葉を選んではいないのだろうと思う。