ナベサダさんのバッハがすごく気持ちいい。
これはかつてのコンサートの録音。
10/25にもう一枚、新録のニューアルバムを発表してる。
元気だなー。
ブライアン・ブレイド参加。
「花は咲く」も。
脚本家の早坂暁さん死去。
ホテル住まいで自宅を持たないという生活形式で長年通され、今でいうノマド、ミニマリストの先駆けみたいな人だったと覚えてる。
たしか心臓が元々良くないので、片手で持てる程度のスーツケース一つで暮らしていたという話もあった。
70年代、倉本聰、向田邦子、山田太一など作家性の高いドラマ脚本家がヒットを飛ばし、市川森一や早坂暁も続いたようだった。今、仕事をしてるのは倉本聰だけ。山田太一は今年病に倒れた。
仕方がないけどさみしいと思う。どうしてもあの頃は…と思ってしまう。
今老齢の人たちも、ほんの20-30年前は、現役バリバリで輝いていた。
今自分も40を超えて、その年月を「ほんの」と思えるようになってしまった。
時間は流れる。
氷河期世代の待遇がひどいというニュースが多い。
自分自身その世代。
たしかについてないと思う。
しかし自業自得の部分もある。
選挙で投票に行く人は、この世代では良くて6割。
おそらく十年、二十年前は五割くらいだったろう。
選挙に行って意思を示さない国民なんておとなしい羊と同じ。
いくらいじめても歯向かってこない被虐児のようなもの。
素直な奴隷だ。
こんなに成功したマインドコントロールもなかろう。
自分たちにできる最大でもっとも手軽な努力は、投票に行くことだ。
存在証明をしていないのだから無視されるだろう。
個人的なキャリア云々の前に、国民が投票所に行かないから舐められる。
どうせいっても、一票なんて知れてるというかもしれないが、
それがお上の思うつぼだ。
その得意顔が無知の証明。
全現金取引がキャッシュレスになったら、手数料がどれくらい、どこからどこへ動くのだろうか。超巨大利権の出来上がりではないか。
先日NHKでも来るべきキャッシュレス社会について解説していた。
現在のクレジットカードと違って、即カネが動くために金利がほとんどいらない仕組みもあるらしい。
しかしシステムを動かすには経費が必要だ。手数料だ。
国も推進してるらしいけど、現金コストが減る分、国のお金も入れてもいいと思う。
金利で誰かが泣いて払ったお金でシステムを維持するなんて、それはやっぱり狂ってる。それよりずっといい。
きっと天下りもすごいんだろうなぁ。それ関連の株でも買っておくか。
キャッシュレス化でどれくらいの費用がどこからどこへ動くのか、誰か試算してほしい。その説得力がほしい。
人間には他人に興味がある人と、物事に興味のある人がいると思う。
上の増田氏は、どっちかというと他人に興味がないのだろうと思う。
自分もそうだ。
だけど、それが悪いことだとか劣っているということではなくて、
反対に物事に興味のあるタイプなのかもしれない。
他人に興味をもっと持って接しろという教えがあるけど、
そんなに他人に興味を持つのはむしろちょっと変ではないかと思っている。
他人から興味を持って根堀葉堀されたくないし、他人もされたくないだろう。
あまり他人と距離を縮めたくないし。
他人への興味好奇心というのも、失礼というか、不躾にも思える。
興味の持ち方も浅く、内容も噂話の類がほとんどだろう。
深く内面に関心を持つなんてことも実際には、ほとんど機会がないだろう。
むしろそういうのは、無駄話噂話雑談系が苦手な「物事系」の人の方が造詣が高いのではないか。
浅はかな噂話程度の無駄話や、他人への興味関心なら持たない方がいいように思う。
「物事系」の人は周りの目など気にせず、自分の好きなことを極めていた方がいい。
むしろその方が成熟した態度だと思うのだ。
養老孟司氏が自殺した人の日記を見たら人間関係についての記述ばかりだったという。
何か好きな物事を自分の尺度やペースで進めることもよいことだと思う。
数が増えれば、摩擦も増えるのだ。
他人への関心が高い人たちは確かに世間で多数派だろう。
しかし数が多いだけで正解とは限らない。
他人への関心が薄い人は常々「これでいいのかな」「まちがっているかな」
という内省をする機会が多いと思う。
これは却ってメリットだと思う。
内省なき人ほど恥ずかしいものはない。
家が寒い。古い家だから、サッシもアルミで、一重のガラス窓にカーテン。
冷気が入りやすい。
風呂の小窓も同様。寒い風呂は良くない。
自室の窓はポリカ二重窓にして数年。前より寒くはない。
風呂だけでも、ポリカの二重窓を取り付けようかと思案中。
なんとなく二階の空き部屋へ行ってみると、そこは窓の内側に障子のある部屋だった。
窓を触り冷たいのを確認し、障子を触ると冷たくない。
当たり前の事なんだけど。紙と木だから冷たくない。
最近になって、日本の家の断熱が良くない原因はアルミサッシだ、海外は石油樹脂や木枠だ、という話を聞いてそうかそうかと肯いていたけど、日本家屋の障子はずっと昔から、二重窓の役割をやっていたのだ。
破れ障子なんていうと、寒々しい貧乏な部屋のイメージだけど、本当は暖かいのだ。冷気を遮断するのだから。しかも採光もできて、まぶしくもない、安価で手軽な紙という素材を使って。やるねぇ。
十年ほど前だろうか、染太郎さんが亡くなった後、復帰した染之助さんの独り舞台を見た。といってもお祭りの余興の舞台だった。
前座の芸人さんが下がって、一旦間が開いた。まだお囃子の準備が整わないのかもしれない。しかし下手の方から見ていた自分には、上手の影に顔を出した染之助さんが見えた。目が合った(ような気がした)瞬間、ベロを出して「変顔」してみせた染之助さん、最初他の客は気づいていなかった気がする。スッと姿を後ろに隠した。しゃれてて、かっこよかったなー。
***
あるドキュメンタリーでそのころの染之助さんを追ったものを見た。お兄さんが死んだあと、奥さんのフォローで仕事をされてるようだった。誰のミスかわからないけど、仕事先でお囃子のCDがカバンになかった。家に電話をかけて、そのミスについて奥さんに対し意外にも苛烈だった染之助さんは、芸に厳しかったのだろうなぁと思うし、独りの寂しさもあった。
***
ご冥福を。
若いころ営業で外回りをしていた時期があった。
最初楽しみは昼飯くらいだったが、すぐに苦しくなった。
ゆっくり昼食なんて言う余裕はないので、
そのころすでに少なくなっていた個人店なんか探してられない。
選択肢は大概どこにでもあるファーストフードだ。
最初は自由に自分で昼飯を選べると思っていたが、結局同じような早い安いチェーン店のものしか食べられない。文字通り食傷する。
選んでいるようで、それしかないという状況のなかで、選ばされてるという感じ。
友人は若いころパチンコ漬けだった。
家にいないときはパチ屋にいた。
カネを払って一日中玉をはじいた。
今のビットコインのマイニングというのは、わずかな報酬のために、
自分のパソコンを提供し、システム維持に貢献するのだという。
あの頃の友人もパチンコをやめられなくなっていたが、
パチンコ屋の維持のため、カネを払って労働していたようにも思える。
自分の意志で店に行ってるというよりも、洗脳されていた依存症患者のようだった。
見えない糸で店に引っ張られるように。
先日の選挙は大体半分の人が行かなかった。
テレビを見ると、自分が行っても変わらないからという人が多い。
選挙に行ってもいかなくても変わらない、自分の一票で左右しない、
という意識を誰かに植え付けられてるとしたらどうだろう。
その「選択」は、誰に都合がいいだろう。
こういう国民が完成したことを、その誰かさんたちは隠れてニヤニヤ喜んでいるのではないか。
自分の意志で行っていないんだ、という得意そうな顔つきだったけど、
そういう行動を無意識のうちに強いられコントロールされてるように見える。
誇らしげな奴隷である。
誰かさんたちにとっては素直な園児のような層だろう。
ネットの中にはいろんな意見があるけど、
やっぱりその中に流行もあって、今はこういう見方が多いんだと感じることもある。
なにかの拍子に手のひら返しが起こったり。
こういう人たちも、結局自分で自分の言葉を選んではいないのだろうと思う。
知人の年配女性は、ある分野のパイオニアだった。
しかし女性だから出世できなかった。
すると給料も男性より上がらなかったろう。
とすれば現在の年金もさほど高くないだろう。
功績を残した人でも、女性だからという理由で、
(同じように仕事をした男性の同僚よりも)
つましくお暮しかもしれない、と思うと切ない。
現代の現役世代においても、女性は男社会の中で出世しづらいという。
身の回りにそういう人もいないので、あまり実感していなかった。
しかしその知人女性の事を考えると、引退後の事も考えなければ視野に入れなければならないと思った。
同じように能力があって仕事をこなしても、
女性だから出世できない、給料が少ない、
という条件であれば、それはやはり引退後にも影響するのだろうか。
いままで働く女性のことなんてほとんど考えたことなんてなかったけど、
老後のことを思うとなんだかやりきれないような気になった。
自分はこれに当てはまる部分が多い。年収はもっと低いけど。
これを読んで、そうじゃないのよボーイ、と思った部分があります。
見た目に気を遣わず、消極的で、マーケティングできないことは、
それができない人には、自分の意志ではどうにもならないことなのです。
これを書いた人は、見た目に気を遣うのも、他人に対し積極的に行動するのも、自分を売り込むことも、簡単なことなのでしょう。
しかし、子供のころに誰かから聞かされなかったでしょうか。
「人間には、得意不得意があるよ」
「いろんな人がいるよ」
勉強ができても、運動ができないとか。
算数ができても、国語ができないとか。
絵は上手いけど、音痴とか。
苦手でできないことはだれにでもある。
しかし増田氏にしてみれば、上に書いたことは、簡単すぎるのでしょう。
だから誰にでもできるはず、それなのにやらない、だから良くないと考える。
しかしそれが生来できないのです。
苦手で考えるだけでもつらいのです。
先天的なものなのです。
思うに心が内向きなのです。
意識の根っこが外を向いていない。
リースマンの言う内部指向かもしれないし、
そういう脳みそなのかもしれない。
なので、他人は常に外にいるから、内向きの人間には接触の技術が難しい。
外に目が向いている人は、外界と自分の境目にあり、
外を向いている服装というものを自然に重要視できるのでしょう。
そしてそれを整えることや興味を持つことは自然であり、
それから得られる利益は喜びなのでしょう。
しかしそのように全く思えない。
言われてみればそうだけど。
本質的に興味がない。外からどう見えるかに深層で意義を感じていない。
だからセンスもないし、努力しても続かない。
積極性やマーケティングも同じです。
他とのかかわりより、自分の内側にある興味の方が大事。
そういう人間もいるのです。
じゃあ結婚したいとか言うなということですが、御説ごもっともです。正論です。
しかし壊れた人間であっても、機械ではなく生物なので子孫を残したい部分や、温かい家庭や、社会的により高いステータスに子供のようにぼんやり憧れたりもするのです。
それができる増田氏は「先天的に」それができる人なのです。
きっと素晴らしく楽しい人生を歩んでるのでしょう。
運よく、そのように生れた。
どのように生れつくかは、運なのです。
インターネットには何でもあると見えて、こぼれ落ちるものもある。
どの会社も個人も店も大概サイトを持ってるように見えて、そうでもない。
そういうものの方がミステリアスだったりもする。
ネットにない情報の方がむしろ面白く、価値があり、想像を膨らませる。
中にはわざとそれを狙って、思わせぶりな連中もいるみたいだけど、
それは却って下の下に感じる。あざとく浅ましい。
ちょっと何かを匂わせておいて、みなはしゃべらない。
分からない部分を残して、それでいて存在感を出したい、
ひっそり注目されたい。
やらないなら潔く全部やるな、と感じてしまう。
それでもネットに遠い文化はある。
昨今、注目のスナック文化も、ネットに上がらないものだから、みんな気になってるのではないか。
ネットにないもの、ネットになびかないもの。
他にはなんだろう。
中学生のころは、二週間に一度FM雑誌を買うのが楽しみだった。
FM fanと週刊FMが渋くて大人っぽくて好きだった。
どちらかを選んで買った。
FM雑誌というのは、コンビニで買える音楽情報誌だった。
各音楽ジャンルの専門雑誌に出会うまでは、自分にはラジオとそれが音楽情報のすべてだった。
今ネットで音楽情報を探る人たちも、以前はFMラジオを聴いて、
場合によってはカセットテープで録音した。
これをエアチェックといって、音楽好きは結構みんなやっていた。
新聞のラジオ欄より早く二週間分の番組スケジュールを見るためにFM誌はあった。
FMfanは、格調高い感じの誌面が落ち着いていて好きだった。
大人向けだったと思う。
鮎川誠氏と東ひさゆき氏のチャートボムという対談コーナーが楽しかった。
東さんは
ここで書いてらっしゃるようだ。
週刊FMはもう少し若い購買層を意識してたと思うけど、
浮かれた感じがなく、正統派だった。
カセットテープのインデックスカード(ジャケット・表紙のようなもの)
が毎回付いてきて、これがしゃれたデザインで素敵だった。
各雑誌でそのセンスが違うのだけど、週刊FMは海外の何気ない風景だとか、
大人っぽかった。絵でいうと印象派っぽい(よくわからん)。
なんとなくあの頃はみんな無邪気に外国に憧れていたのだ。
そのころの空気みたいなものが写っていたように思える。
取っておけばよかったなぁ。
レタリングシートとかで複写してアルファベットでタイトルを書いたりした。
この雑誌が一番好きだったかも。
週刊FMは特に年に一二度、付録が付くのが楽しみだった。
名盤300! とかが中綴じに付いてきた。
それでポップ音楽の流れが大体把握できた。
今でもあれを読みたいなーと思う。
もうとっくにどっか行っちゃったけど。
FMレコパルとFMステーションは表紙が軽薄でミーハーで
今一つに思えて買わなかった。
FM雑誌はポピュラーからクラシック、ときには伝統的な邦楽まで含んでいたので、好き嫌いなく音楽に興味を持つきっかけになっていたと思う。
ステレオの記事から電気やスピーカー工作に興味を持ったり、
昭和の男子の趣味雑誌という感じがした。
昔は音楽を自由に聴くことがなかなか難しかった。
ラジカセすら手に入れるのに大イベントだった。
そこに貸しテープ屋から借りてきたテープをダビングしたりして、
自分のものにした。
LPレコードを買うのは、本当に晴れがましかった。
めちゃめちゃ吟味して、一度聴いて失望しても、
好きになるまで繰り返し聴いた。
FM雑誌でラジオ番組追いかけて、録音したり、レタリングしたり手間がかかった。
すると愛着というものが沸くのだなぁ。きっと。
手に入れるのが難しかったりすると、そこには手に入れるまでのドラマや想いが付着する。そしてそれは他人にはわからない自分だけの価値なのだ。周りにどう思われるとか、一般の評価とかは関係ない。それが愛着だ。
もしかして、今の世の中に足りないものは、愛着なのかもしれない。
スペックは愛着を産まないのかもしれない。
スペックより愛着。