何かを好きになると、それを大事にしたくなる。
批判されると悲しくなる。それはそうだ。
しかしそれを怒りにして、批判元に即、攻撃をしたりするのは、ちょっと違うかと思う。
そうなると、好きなものがまるで自分と一体化しちゃってるのではないか。自分を否定されたような気持になっちゃうのではないか。そしてそれに対抗するのが、当然の行動と思ってしまうのかもしれない。
好きなものが自分のアイデンティティになってしまっている人もいる。それはそれで悪くはないけど…ちょっと不安になる。やっぱりソレが自分自身なの? という気分になる。
こういうことは、多かれ少なかれ、誰でもあることだし、自分にも覚えがある。特に自己が未熟な若い時は。
しかし何かを好きになり過ぎて、一体化してしまうのは、もはや「好き」を超えて中毒。ちょっとした依存症状なのではないか。
好きなものは、イコール自分自身や、自分の評価ではない。彼我の差をはっきりさせたほうがいい。好きであれ、距離を保てるというのが、成熟だろうと思う。
なのだから、好きなものを批判されても気にすることもない。人には何かを批判する自由があるのだ。彼らはそれを行使しているだけに過ぎない。
長く生活していると他人に嫌われることもある。昔はそれを気に病んだ。でも、人には他人を嫌う自由もある、こう考えるようになったら、気が楽になった。その人はその自由を行使しているだけだ。他人の権利に対して、こちらは何もしようがない。だから気に病むのは無意味だ。
そして自分にも他人を嫌う自由がある。それを行使すればいいではないか。こっちを嫌うのだから、こっちが嫌い返してやればいい。
いや…待てよ…それもちょっと違う。
向こうが嫌いだからって、それがこっちも嫌いになる理由になるだろうか。それではこの関係の主導権を端から渡してしまっているではないか。こちらに主体性はないのか。むざむざあっちのコントロールにはまることはない。
向こうが嫌いでも、こちらは別に嫌いではない、という関係があってもいい。だって、元々こちらは向こうに対して嫌いな部分があったわけじゃない。それなら無関心であればよい。
本当に悪いやつはこういうパターンをわざと仕掛けてきて、他人や集団をかき乱し、己の手中にしようとするサイコパスみたいなやつもいる。
例えば誰かにあなたが嫌い、というサインを出されたら、私はあなたを嫌いではありません、というサインを出したいものだ。
自分にも難しいですけど、これが理想でしょうかねぇ。
(そういう自分も現実には、嫌いな人だらけ)