全員80年代のヒットメイカーだった。
そして全員変態的でもあった。
変態的セクシャルな表現がメジャーで行われ始めたのは、
80年代からだったのがよくわかる。
70年代ではメジャーアーティストにそういう人たちは現れていなかったと思われる。
ボウイだってエルトン・ジョンだって、あそこまでストレートではなかったようだし。
プリンスとデビッド・ボウイは接触がなかったのかな。
あったらおもしろかったのではないかと夢想してみる。
売り手は利益より、話題作りのためにやったんだろうけど。
漁師さんは新品のジーンズが履ける以外に得るものはないのか。
大げさに言えば搾取に見える。
労働でしょ。
ジーンズを育てるっていう。
そして、もし漁師さんに売上からパーセンテージが入ったら、
なんか色々な角度で見る目が変わりそうな気がする。
さらに買う方も買う方。
他人が育てたジーンズを大金払って買うっていう、
金に飽かせて物欲満たすっていう、
その趣味は成金根性まるだしだよね。
カッコよくないよね。
カッコわるいよね。
どこがいい話なのか。
マーケティングとして面白いとは思う。
それだけであって、全肯定はできないなぁ。
なんとなくはてブって、デザイン関連の話題とかマーケティングとか、ちょろっとかっこよさげな物に点数が甘い気がする。
ちょっと高評価しすぎだと思う。
逆から見たらチョロいと思う。
子供のころ、商売をやっていた家庭だったので、年末は大忙し。
クリスマスなんてやったことないどころか、小学二年生まで知らなかった。
幼稚園などで行事をやっていたのかもしれないが、気にとまらなかったのだろう。
8歳の冬の日、友達の家に行くと、新しいゲームがある。
アスレランドという立体ボードゲームだ。
いいなー、おもちゃ買ってもらえて、というと、
クリスマスだから君のところも買ってもらえばいいのに、という。
なにそれ、と聞くとそこのお母さんと共に驚かれ、教えられた。
家に帰って聞くと母親は少し動揺し「家は仏教だからやらない」という。
その後も毎年、ケーキもない。
もう少し年長になると、どうも仏教だからというのは方便で、店が忙しいのだ、と気づく。とくにケーキ類が好きなわけでもないので、どうでもよかった。年末は店屋物で済ませる夕食も多く、むしろ好きな物を選べて嬉しいくらいだった。
ただ、正月になると、お年玉のほかに好きなおもちゃを一つ買ってもらえた。あれがクリスマス代わりだったんだなー、と思う。
昭和の昔の、あの飛び回るような年末の忙しさを、夜遅くまでの商売だけでなく、家事や子育てまでこなしていた母親はスーパーマンだったのだろうか、と思う。育ててくれてありがとう。生涯充分なお返しができそうにないけど。
こういう経営者側の意見には腹が立つ。
まったくのポジショントークだ。
…しかし…そういうポジションだからな…。
経営者側は彼らの考えを示し、実行している。
それは彼らの権利でもある。
彼らは彼らの権利を行使しているのだ。
では労働者側は、何らかの形で、自らの権利を主張し、行使してきたろうか。
もしかして、その権利を手放して来たのは、自らではなかったろうか。
権利を主張するには、責任やリスクがある。
もしかして時節柄に合わず、格好の悪く見える部分もあるだろう。
そのせいか、日本で積極的に労働活動をしている人たちは少なく見える。
だけど主張しなければ利益は得られない。
例えば古臭いようだけどストライキや、団交など方法はあったかもしれない。
それもしなかったし、労働側の権利をサポートする候補者を選べたのに選挙も棄権した、とする。
でも待遇面で経営者たちや、会社側に不満はある。
それじゃ仕方がない、ということにならないだろうか。
権利も主張せず、選挙にもいかない。
そういう働き方をみんなで数十年繰り返していたら、経営側の思うがままになってもおかしくない。経営側が暴走するのも、ある意味、自然の摂理、社会の摂理ではないか。天敵の居なくなった野生動物が、目いっぱいはびこって、我が世の春を謳歌しているようなものだ。
権利は放棄して、経営側に任せておいて、待遇が悪いといっても、それは仕方がないように見える。
経営側、労働側、両者が拮抗して待遇が見直されるのではないか。
では労働者ひとりひとりに、この状況の責任があるのだろうか。
というより、分断されてしまっているのではないか。
連帯できず、また気運も低いままだ。
やり始めても、大きな力を持つ前に、きっと経営側に放逐されてしまうだろう。
また今働いている若い人が、いきなりそんなこと言われてもこまるだろう。
何十年と続いて徐々に浸透してきた、労働環境、労働文化なのだから。
でも、そろそろ新しい種をまかないといかんのではないか。
そして、頼りにするべき、労働者寄りの政治集団は党利党略に淫していて、だらしないし、情けないイメージ。世間から白い目で見られがち。
まあ仕方がないか、でまた数十年、というのが日本の未来なのだろうか。
これでいいのか。
はてブを見ていると、村上龍氏が好きなディランの歌はジャストライクアウーマンだという。あれもいい曲。
ディランの歌はあんまりよく知らない。歌詞が分からないから、日本人には魅力は半減というのが本当のところだろう。だからオリジナルアルバムはほとんど聴かなかった。
そういえば25年ほど前のクロスビート(音楽誌)でのインタビューで、前職が国語の教師だったウィルコ・ジョンソンが「ディランの大ファンだ。残念だけど彼の本当の良さは母国がが英語でない日本人には伝わらないと思う」という発言があって、まあ、そうだよな、と思った。
でも初期のベスト盤辺りには、素朴なメロディーの素敵な歌が幾つも入っている。その中でも自分が一番好きなのはこの歌。
歌詞も反戦でも、社会風刺でも、予言めいてもいない。
孤独な男が、タンバリンマンに、一曲歌っておくれ、どこかへ連れて行っておくれ、と懇うというただそれだけの歌。タンバリンマンを麻薬がらみと解釈する人もいるけど、何かと言ってそればっかりだとつまらない。どう捉えてもいいと思う。
わずか50年ほど前には、まだこんな素朴な表現が世界中に届いて、若者たちの心を震わせていたのだ。現代を見渡せば、情報と物質に満ち溢れている。それが悪いというわけじゃないのだけど、思えば一世代も経たない内に、ずいぶんと遠くまで来てしまったような気がする。自分だってリアルタイムじゃないのだけど。
そういう感慨みたいのものを同じように、今回のノーベル賞騒動で、世界中が感じたのではないだろうか。人間の心を押し動かすのに、言葉や音楽において本当に必要な物って、今の水準よりもっともっとわずかなんじゃないか、と感じました。
もうひとつ、好きな歌。くよくよするなよ。
きっといろんな暗喩がちりばめられているのだろうけど、簡単に言うと、あんまり考え過ぎるなよ、という歌。
あの有名なディランと恋人の素敵なアルバムジャケット。
お相手だったスージーさんは、数年前に逝去されています。
ノーベル賞の話を聞いたら、どんな顔されたでしょう。
この写真の瞬間。無名のシンガーと恋人の二人はただただ楽しそうです。
繁忙期に入り昼飯は仕出し弁当となった。
評判のいい仕出し屋さんの弁当、うまい。
しかしひと月するとさすがに飽きてくる。
最初はうまいうまいと食べていたのに。
仕出しだから、当然、冷たい。
だからレンジで温める。
しかし味気なくて、飽きる。
レンジで温めても、全体が一定の温度になるが飽きる原因だろうか。
作り立ての食べ物は、それぞれがベストの温度になっている。
しかし暖かくても、レンジで温めた弁当は、みんな均一に温かい。
これがもしかして飽きる原因ではないか。
本来数種類の料理があれば、それぞれの温度が凸凹している。
この温度の凸凹が味わいの一つになっているのかもしれない。
知人は生活保護。
いろいろ仕事を試したが、上手くいかない。
こだわりが強く、自分を曲げない。
そのせいか、生活は転々とし、この現況になった。
自分を曲げないというと職人気質のように思えるが、このこだわりの内容が他人にはわかりづらい。
そこにこだわる意味があるのかな…というこだわりかた。
単に自分が思いついたという事実に固執しているようにも見える。
周りから、それはこうすれば、と言われると反発し、余計に自分の考えを押し通す。
こだわることで、より良い結果に結びつくのであれば、こだわったほうがいい。
しかしそうでなくてもこだわるタイプの人がいる。
こだわること自体に快感があるのか。
自分の考えに固執することで、心理的に得る何かがあるのだろうか。
そう考えるとこだわりというより、自分の中での最初の思い付きに固執してしまう状態が、周りから見ると「こだわり」をもっているように見えているだけなのかもしれない。刷り込み・思い込みを上書き修正できない状態が「こだわり」に見えているだけなのかも。
また彼と話していると、向こうっ気が強く、こうしたらどうか、という周囲の言葉は命令のように聞こえているのではないか、と感じた。
他人の指図は受けたくない。
誰しもそうだろうけど、アドバイスなら聞いた方が得だ。
そういう柔軟性のないこだわり方。
結果にこだわるよりも、やり方や自分自身に固執する。
助言と命令の区別がつかないのかもしれない。
性格というよりも病的な気がしてきた。
http://ameblo.jp/guitarwolf-seiji/page-1.html#main
読んで欲しい。
よませるし、考えさせる。
文章が上手いし、元となる感性が深い。
アウトデラックスに出て、さらにライブ休止の報があった。
ちょっと過渡期なのかな。
仕事中、サンダルで過ごすことがある。靴を脱いだり履いたりする必要があるときは、サンダルに履き替える。作業したりもするので、そのまましゃがんだりする。しゃがむといっても、かかとをつけてしゃがむのではなく、つま先だけつけてしゃがむ。そのほうが作業しやすい。
またサンダルも、親指の又に鼻緒が入るような、ビーサン系ではなく、五本の指をそろえて甲の部分に通すような、便所サンダル型のもの。ただしゴム製のいわゆる便サンではなく、もうちょっとソフトな物。
これがしゃがんでると、甲の脇部分がサンダル台からちぎれてしまう。だからしゃがまないようにしないといけない。
サンダルというのはしゃがみにくい。
靴下を履いていればビーサン鼻緒系はむり。しかしゴム草履・便所草履系もちぎれるからだめ。クロックス系はモッタリしていて意外と歩きにくい。
うまい具合にしゃがみやすいサンダルはないものだろうかと検索するが、意外とない。
しゃがみやすいサンダルというのは、ニーズがないのか。甲の部分が、ストレッチ素材ならそれでいいんだよ。昔のびのびジーンズってのがあったくらいなんだから。
しかし「しゃがむ」という言葉は漢字がないのね。
♪ ジョーイトゥザワ~ オーザボイザンガ~
CMなどでも同じみのスリードッグナイトの joy to the world。
スリードッグナイトというのは、犬を三匹必要になるような寒い夜という意味だそうです。犬は人より体温が高いから、外国では寒い夜は犬を抱いて寝たそうです。それが三匹も必要だよ…という意味ですね。
しかし犬からしたらたまりません。
こいつ冷てーなーとおもいながら一晩過ごすんですからね。
スリードッグナイトは、理屈抜きで楽しい曲、良い曲をソングライターたちから集めて歌ったエンターテイメント系のロックバンドです。思想なし。節操なし。でもそれがドライで、気取ってなくて、カッコよく見えます。
ジョイ・トゥ・ザ・ワールドはエレピのイントロがたまりません。まだシンセサイザーが行きわたっていない70年代はエレピ全盛期。気持ちいですねー。
この曲の作者は、ホイト・アクストン。もう物故者です。
ウィキペディアで調べると、プレスリーのハート・ブレイク・ホテルの作者の一人でもあります。人生にこんなに有名な曲を二つも残したら、楽な後半生だったでしょうねえ。
さらにこのひとは役者さんでもありました。なんとあのグレムリンのお父さん! 行き成り冒頭に出てきます。
このバンド、ジョイ~以外にも、オールドファッションドラブソングやファミリーオブマン、シャンバラなどなど、良曲が目白押しなんです。名作名曲ではないかもしれないけど、あのロック~ポップスの黄金時代である70年代に、広く愛されたトップ40ヒッツが沢山詰まっています。初めて聞いても懐かしいという不思議な曲ばかりです。
なかなか他人と話していて心から面白いと思うことはない。
その相手やその話がつまらないというのではなくて、こちらが面白い話を引き出せるような技術が足りないとか、面白がる知性が足りないからだろうと思う。
本来他人とは面白いことの塊なのだろうけれど、自分にはそれを味わう舌がないのだ。
それが上手い人がコミュニケーションの上手なのだろう。
ただ似たような仲間とワイワイやるのが、その達人でもなかろう。また他人に興味を持てないことを、相手のせいにするのも違う。
しかしなぜか他人の、それも年配者の多くの、ポツリポツリと話す思い出話の面白さや、味わいというのは、なかなかのものがある。
もはやコミュニケーションの向こうの言葉のように思える。
彼岸か。
思い出話は、言葉の終着点なのかな。
作業系の仕事ではないけど、毎日ドカジャンを着ている。
しかも二種類着てる。
一個はフライトジャケット風。カジュアルでしょ(´・ω・`)
もう一個は正統派ドカジャン。
北の国からの黒板五郎、もしくは鬼瓦権蔵風。
メーカーは橘被服。ブランドネームはhigh tachibanaだ。
暖かくて、動きやすい。
最高だ。
他のメーカーからも同じようなものは出ている。
それにも興味はあるが、現在来ているものが壊れないので、手を出さないでいる。
南関東ではあまり売っていない。
最近は作業系の仕事をしている人も、もう少し軽快な感じのドカジャンを着ている。
寒い地方向けになっているのかな。
でもやっぱりこのトラディショナルなドカジャンが大好き。
正式な一般名称は「カストロコート」というのだ。
この間亡くなったキューバの方からの由来ではないよ。
諸説あるけど、イタリア語でカストロとはビーバーの事らしい。
イタリアでは労働者→働く人→働き者→ビーバーという連想になるらしい。
ビーバーは自分でダムを作っちゃうくらいの働き者の建築家だもんね。
ということで労働者のコート、ビーバーのコート、カストロコートとなったという説があるらしい。全部ネットに書いてありました。こういうの、いけないのだっけ。
ドカジャンなんて言ってはいけないのかな。
食事だけなら、その価格の中に席料も含まれた額で提供されてるのでしょうが、酒も飲む、となると自然と長居の客となります。そうすれば当然、長く占有している場所の分、支払わなくてはなりません。だから酒と共にお通しが出てきます。
店側からすると、席料だけ取るのも不粋だね、じゃあ、ちょっとした小鉢でもつけましょう、という粋な計らい。これがお通しだと思えば良いですよね。席料のおまけだから、気に入らないなら食べなくても良い。せっかくの粋な好意を断るわけだから、これは不粋な客だけど。
じゃあ「おまけ付き席料」と言えばよいかというと、それじゃ長いでしょ。縮めましょう。最初に目通されるものだから「お通し」としましょう。
粋じゃないですか。芸者代を花代と言い換え、便所を手を洗う場所、手洗いと、いちいち金がらみの不粋な事や、不浄な物を直接口にするのを避けて、比喩で表現する日本文化。素晴らしい。もうこの良さが分からない人が多いようですが。
これが外国人にはわからない。そりゃそうです。知らないのだから。でも説明すれば納得するでしょう。「テーブルチャージですよ、おまけがついてくるなんて、良心的でしょう」。
外国の人はわからなくて当たり前です。でもこれが気に入らないという日本人も多くて、コメントがお通し批判の嵐。行かなきゃいいのに。自分で選んで、行っておいて、後から文句垂れる。下衆で野暮。もう行かないほうがいいよ、お通しがあることはわかってるんだから。もう行かないよね? 大丈夫だよね? もう行かないよね?
今度はメニューに乗ってない、どこにも書いてない、不文律はやめろ、とくる。不文律を理解できない己の感性の低さに原因があるのかもしれない。それは棚に上げて。そもそも不文律って悪いことなの? ボクたちは、なんでも字で書いてないと分からない子なの?
アメリカのPL法みたいに、なんでもかんでも書いてないといけないのか。
「不文律ガー」。いつもの「ガー」系のアレです。誰かが書いてたことに乗っかって、いい気分になって繰り返してるんでしょう。
そもそも、マナーや習慣、慣例、風俗というものは「不文律」です。不文律を否定するなら、それら社会文化の否定です。郷に入っては郷に従え。
そもそも居酒屋に来るような外国人観光客は、一般の生活文化を体験しに来るのでしょう。そういう物を求めてくるのです。郷に入りたくて来たのです。
しかしその国の固有の文化を学び、合わせる気がないなら、そこから去ったほうが幸せです。日本人であっても。もう出国しなさい。あなたたちが生まれる前からの習慣です。
するとお通しはまずいからいらない、という。そりゃどうせクリームコロッケや空揚げがごちそうの世代・年代からすれば、お通しに出てくるような酢のものだの、御浸しだのは、つまらないでしょう。
でも、旨いまずいの半分は、自分の舌の責任なんです。絶対的基準なんてないのだから。自分の舌が子供なのか、バカ舌なんではないですか? その可能性もありますよね。とっとと脂煮込みラーメン屋にでも移動した方がいいですよ。
せめて、お通しのない店を探し出してそこで飲みなさい。きっとほとんどないでしょう(それだけ定着した習慣ということです。もう文化ですね)。この店いやだいやだと言いながら、その店で飲まざるをえない人間は、口は達者でもその店のシステムに負けています。だいたいレストランやバーのテーブルチャージと比べたら格安だとおもいますよ。
それか道で飲みなさい。たまにいるでしょう。昼間から真っ赤な顔をして、川岸や道で座り込んで飲んでいる人たち。
あの人たちは、席料が払えないから、店に入らない。だから道で飲んでいるのです。同じことです。
すると今度は「お通しというシステムはー」と言い出す。「お通しのないチェーン店にー」。大資本のチェーンと個人経営なら、そりゃそもそも分が悪いでしょう。その差の根本原因がお通しだとは思えません。そう思いたいらしいけど。
じゃあお通しのないチェーン店にどんどん行ってください。こっちは消費者様だから、どんどんサービスしやがれと。それなら大好きなワタミ系でも行ってください。どうぞどうぞ。行って、ブラック経営者とブラックカスタマーで、現場の人間たちを締め上げなさい。それがしたいんでしょ。どんどん競争させたいんでしょ。やればいい。これが上品で頭のいい、知的なモテモテの大人の行為だ。こりゃ。
ブラック企業を批判するくせに、自分はブラック客であることに気が付いていない。ブラック社会の一員であることが分からないのでしょう。ビジネスモデルガー。何も経営したこともないくせに。
そんなにキレるセンスと頭なら、自分で200万くらい作って居ぬきで、お通しのない飲食店でも経営し始めてみたらどうでしょうか。あなたならできるでしょう。小さい居ぬきならそれくらいのお金からできますよ。200万もない? 作れない? 借りられない? 甲斐性がないですね。そんなんじゃ、まあ、何やってもダメでしょうね。じゃあ、使われて、文句を言いながら、一生、気にくわないお通し食べるしかないですね。
今年は「ゲス・下衆」という言葉が流行ったので、来年はぜひ「野暮」という言葉が流行ると良いですね。意識が高い先進的な人たちの脳みそは流行語にすぐ飛びつくでしょう。「ほぼほぼ」とか得意顔で使ってたクチじゃないですか?
いやもしかして、外国人がきちんとそのシステムを理解したら「OTOSHI、サイコー!」とか言って流行り始めるんじゃないか。生食とか枝豆みたいに、日本の飲食文化として、高評価されるかもしれない。格安のテーブルチャージに、おまけもついてくる! 素晴らしいおもてなし! 「OTOSHI、嫌いですか? you,YABO!」。そのとき手の平を返すのかねー。
倫理的消費、という言葉があるそうです。いろんな意味合いがあるようだけど、消費者も己の益だけでなく、社会全体の益のためにも、消費の仕方を考えよう、というものです。つまり、持ちつもたれつ、共存共栄。そういう世事も覚えましょう。