野良馬ヒンヒン

思いつきを記録しています。下らぬものです。

早春譜と知床旅情

ラジオで早春譜が流れているのだけど、知床旅情に似ている。

いや逆か。

 

あれ知床旅情ってこんな歌詞かな、と思ったら早春譜。

 

昔から似てるという指摘はあったらしい。

どちらも好きだけど。

 

Wiki 知床旅情

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E5%BA%8A%E6%97%85%E6%83%85

 

 

 

他人の思い出話の甘さ

他人の自慢話や近況報告は、聞いていてもあんまりピンと来ないが、他人の思い出話というものはいいなあと思う。

 

高齢の人と顔を合わすことが多いのだけど、思い出話の宝庫だ。だけどあんまり立ち入ってもいけないし、なかなか引き出すのは意外と難しい。その上、自分の話など誰も興味ないと思っている人が多いのだ。

 

いつも自慢話バリバリのやり手のオジサンが、遠い目をして子供のころや、若いころの出来事を振り返るのも良い。

 

歳を経るたびに、人は未来よりも、今よりも思い出に生きていると思う。

 

「犬を連れたルネとジョルジェット」 

 

ポール・サイモンの音楽の舞台のほとんどは思い出の中にあるようだ。

この歌の題名を直訳すると「戦争の後で、犬を連れたルネとジョルジェット」。

画家のマグリット夫妻が犬の散歩をしているスナップ写真から着想した。 

 

アメリカが不思議なのはトランプが勝ったり、粗雑な力技の人が多いのかと思う反面、こういう人が支持され続けたり不思議な国だ。

 

ボブ・ディランに続いて、この人がノーベル賞とってもおかしくないと思う。

 

 

 

オレの絶メシ 相模原 編 揚げ鶏の玉子あんかけ

相模原に住んでいたことがあった。

 

北口の長い商店街の一番奥に病院があって、その100mほど手前の西側にカウンターだけの小さな中華屋さんがあった。名前は忘れた。

 

中華料理というより、中華定食屋さんという風情だが、餃子やチャーハン、麺類と何を食べても美味かった。中でもうまくて何度も食べた定食があった。

 

油淋鶏のようなもも肉の唐揚げをとんかつのようにサクサクと刻んで、その上にかき玉のあんかけが掛かっていた。あんかけは上品な黄金色で、塩と鶏ガラスープで味付けられていたように思う。サクサクの鶏肉はアツアツのジューシーで、ふわとろのあんかけは優しい玉子味だった。ふたつが合わさった部分は鶏を包んだ薄い衣がしっとりとしていて、それもまた美味かった。

 

バイトで金が入るとそこに通って食べた。

 

店主の人は眉毛の濃い50代くらいの人で、愛想がよく、いい人だった。互いにニコニコ挨拶して、注文、食事、勘定でお別れで話し込んだこともなかったけど、一度だけ、「久しぶりですね」と声をかけてもらったことがあった。こちらは学生の不器用さでハイ、ドウモとにこにこするだけで情けなかった。

 

なぜか店内にはSLの写真が沢山飾ってあり、一枚だけ柔道の山下さんの写真があった。

 

そこを離れてから7年後、再び訪ねたが、もう店はなかった。

 

 

 

酢あぶら

昔は野菜を生で食べることも少なく、地方ではサラダなんて戦後に一般化したらしい。

 

当然、出来合いのドレッシングなどなく、酢と油を混ぜて自家製の酢あぶらという「タレ」を作り、「洋風の和え物」みたいな感覚だったという。

 

親に聞いた話。

 

普通のことなのかな。外の人から酢あぶらって聞いたことないから特殊なのかと思っていた。

 

今でもウチではそうして食べるけど、美味い。塩胡椒を入れてレモン汁に替えてもいい。

単に謝罪をさせたいだけでしょ

色んな騒動を見ていると、「正しい」を隠れ蓑にして、かさに着て

単に誰かを謝罪させたいだけなんじゃないかという気がしてくる。

 

カネがない世の中になって、能動的に自分の生活を楽しむより、

安いネットの世界で受け身になったまま誰かの不運を楽しみたいだけじゃないだろうか。

 

バブルのころなんて緩かったもんね。

 

しかしそういう歪みはいずれ己に「返ってくる」。

しかも自分には気づかない形でということもある。

 

 

 

人権というのは、自分の嫌いな奴の権利を認めろよ、という話だし、

多様性というのも、自分の嫌いなタイプの人間も受け入れろよ、という話。

 

どちらも試されているのは自分だし、なかなか厳しい話。

偏見や差別心というのは誰の中にもあるのだから。

サブリースがやってきた。

ある日、家の玄関を開けて外を見ると、20代くらいの女性が目の前を横切って歩いて行った。自分は玄関から出て母屋の脇の犬走で2-3分、片付けの用を済ませた。

 

そして玄関に戻ると、母親と先ほど歩いて行ったはずの女性が話している。おやおやなんだろう、困りごとかな、とそちらにいくと、母親は話はお断りといった様子で玄関から離れていき、女性からは〇〇コーポレーションの名刺を渡された。

 

女性は、今、お母さまが出ていらしたのでお話をさせていただいていましたが、私、土地活用とアパート経営の〇〇コーポレーションです、と言った。アパートなどは不要ですし名刺もお持ち帰りください、とお返しした。悪名高いサブリースだ。

 

うちの母親がそこにいたから、わざわざ踵を返して戻って話をしたというのは、高齢者なら話を聞いてくれやすいし、不動産の権利を持っている可能性も高いからだろう。つまり老人狙いで不動産の借金を負わせようという目論見なのだ。

 

NHKで取り上げられて数年経って、もう引っ掛かる人もいないと思っていた。しかしながら数軒先にも現在建設中で、騙す方もさながら、騙される方にもあきれる。そして女性の営業マンも、なにもこんな悪い業界に入って来なくても、人手不足の折、きれいな仕事は他にもある。愛想のよい人だったが、こんな世界にキャリアを積むもへったくれもないだろう。なんだか嫌な気持ちになった。

 

 

LPサイズのジャケットだけ売ったらどうだろう。

https://dailyportalz.jp/kiji/enjoy_jakegai

ジャケ買い」の楽しさをもう一度

 

これを読んで懐かしくなった。あまりやったことないけど、たまに覚えがあるジャケ買い。外れたっけなー。なんだっけあれ…。

 

レコードからCDに移行してもう30年だ。

それなのにLPサイズのジャケットにまだまだ魅力があるというのはすごい。

 

そこで思ったのだけど、新作の音源も、ジャケットを別売りすればよいのではないか。

ジャケットだけなら安くできそう。

 

「ダウンロードした人だけ」みたいな縛りを付けると、色々面倒くさい。

でもジャケットだけでも欲しい人みたいな需要を掘り起こせるかもしれないし。

ジャケットだけ売るっていうのどうだろうなあ。

 

もしかしたらお気に入りの写真をLPジャケットに仕立てますみたいなサービスとかどうだろう。

 

最近聴いているSpotifyのプレイリスト

どういうコンセプトか分からないけど、60sから現代までのルーツ系ロックだろうか

プラスチックのマスクを再利用して、色付きにしたら良いと思う。タオルでもいい

新型コロナの流行でマスクが足りないという事態になりつつあるようです。自分は作業用のカップマスクを箱で持っていたので、当座はまだ良いのですが、こういうことにも備えておく時代になったようです。

 

昔のマスクはガーゼ式の物しかないのですが、これは結構繰り返し洗濯して再利用したものです。最近のマスクは使い捨てが基本なので、足りなくなるとかなり困ります。

 

最近は、透明なプラスチック製の使い捨てマスクというのもあります。この前スーパーの中のベーカリーで使われていて初めて目にしました。口元が見える方が接客する上で便利なのかもしれません。

 

またこのプラスチック製なら、いざマスク不足というときも口元部分を消毒すれば再利用がしやすいと思います。口元部分は透明なのでツバが飛ぶと汚く見えるというデメリットがあるようですが、白でも青でも色付きにしてしまえばツバは見えないし、実用上問題がありません。

 

再利用しやすいマスクというのも、これからの課題ではないでしょうか。ただ極端な話、タオルを巻いても良いのだと思います。

電話のコールは10回までにしてください。

親族に電話の呼び出しコールを延々と鳴らす人がいる。

 

風呂に入っていたり、休んでいたり、手を離せない家事や作業していたりすると、すぐに出れないことがある。

 

向こうはお構いなしに電話を鳴らし続けるので、仕方なしに中断して出ると、どうでも良い内容。

 

だいたいこういうコールをする人は、がまんの閾値が低い。

 

だからどうでもいいハナシでもすぐに決着を付けたいので、相手の状況など考えず、さっさと電話する。すると今度は相手が電話に出ないことに我慢がならないので延々とコールをし続ける。

 

相手への尊重や想像力がない。それらがあれば、長々コールを鳴らせるはずはない。我慢ができず、想像力が低く、他人への敬意がないというのは、人としてレベルが低すぎる。大人として良識を欠いているという自覚がほしい。ムキになって勝ち負けのように掛け続けているのかもしれない。そう考えると不気味だし、敬遠、軽蔑する。

 

10回も鳴らして出ないのは、居ないか出られない状況なのだから切るというのがマナーだ。それだけやったら割り切って考えを変えるべき。そういう柔軟性や創造性がないのだろう。動物みたいだ。前頭葉働いているのか。

 

むしろそのタイミングで掛けた自分の方に非があるのだ。相手側には必ず電話に出る義務などない。

 

 

小泉進次郎さんは育休を取られます。

そのこと自体は良いことです。

 

しかし彼は労働者ではなく、大臣という特別職です。

組織のトップであり、会社なら取締役です。

 

自分だけ育休をとって、部下である環境省職員には取らせないということはないでしょう。隗より始めよ、というのはそういうことです。それができて初めて評価をしたい。

 

単にスキャンダル逃れじゃないことを祈ります。

小学校低学年のころは毎週土曜日のドリフの8時だよ!全員集合が楽しみだった。視聴率100%男の欽ちゃんの番組もまだまだ大人気だった。

 

小学校三年生の夏休みにひょうきん族に出会ってからは、ビートたけしファンになり中学校の途中までそれが楽しみだった。小学校五年のときに笑っていいともが始まり、密室芸人だったタモリが表舞台でブレイク。

 

中学校になるととんねるずが大人気。高校時代までよくテレビで見た。明るいアナーキストといった風の人気者には、全国の若者が動向を注視せざるを得ないようなカリスマ性があった。

 

90年代に入り、大学生になるころにはダウンタウンが大きく人気を伸ばした。とんねるずよりも昏い目のサディスト的な笑いは、それまでの陽気なバラエティの角度を大分変えたと思う。

 

近年はとんねるずの笑いはハラスメント芸だといって批判されるけど、DTの番組はそれ以上に人間性を疑いたくなるようなネタがいっぱいだったと思う。それを見てみんな笑っていたんだから同罪だけど。

 

90年代後半になるとそれまで低迷していた爆笑問題が念願のブレイク。これも太田光の暗さや人間不信からくる違和感が源になっていて不思議な対称性であった。松本人志にはない文学的な知性に惹きつけられた人も多かったろう。

 

たけしは映画に夢中だったようだけど、このころはまだBIG3も元気で存在感も強く、その他にもウッチャンナンチャンボキャブラ芸人、ナイナイなどの元吉本天然素材組も現れて、まさに百花繚乱であった。

 

*

 

たけし、タモリから爆笑問題までは、他人や社会の約束事・建前を嘲笑い、ぶち壊すという破壊芸だった。それによって日本人の感覚も大分変っていった。たしか欽ちゃんはたけし以降、日本人の感性が変わったと言っていたと思う。

 

壊すことにカタルシスがあるのだろうけど、もうこれ以上壊せないところまで来てしまった感もある。ポリコレという新しい建前は世界的なもので、歯が立たないようにも見える。

 

おそらく少しエグみのある笑いはBSやCS、ネット番組に流れていくのではないか 地上波はまた建前の多い、上品で清潔な笑いに戻っていくのかもしれない。それもむべなるかな。そのころ日本人は何で笑っているのだろう。