野良馬ヒンヒン

思いつきを記録しています。下らぬものです。

祖母の作った、スルメと大豆のかき揚げ

祖母が考えたというかき揚げが好きなのだけど、

他で目にすることもなく、もう伝える人はいなそうなので、

もしかき揚げの具に一風変わったものを入れたいという人がいたら試してほしい。

 

スルメを水で戻して1㎝ほどの賽の目に切って、

おなじく水で戻した大豆と、

玉ねぎや長ネギと合わせて、ただかき揚げにする。

 

これが美味しい。

 

スルメからじんわり旨味が出て、弾力ある噛み応えもよい。

大豆のポリポリした歯触りがクセになる。

 

何個でもいける。

冷めても豆とスルメの食感がいいのでイケる。

 

 

 

 

キャッシュレスの運営コストは誰持ちか。

 

自分自身は現金もカードもプリカも使う。

むしろキャッシュレス社会になった方がいいと思う。

だけど手数料コストが高いし、国民的にメインの決済手段となるには

不公平感があってはいけないと思う。

 

*

 

現金というのは国が管理してる。

つまり運営コストは国のお金、税金だ。

 

キャッシュレスというのは、利用者が手数料を払う。

払ってないつもりでも、利用者の払った料金の中から

サービス提供者が間接的に払ってる。

つまり運営コストは、ユーザー持ちだ。

 

運営費用を国が負担する形から、利用者が直接支払うシステムに移るのだ。

国から国民へ。

ここがあまり浸透していない気がする。

 

税金だって元は国民のお金だけど、キャッシュレス社会が完成したって、

税金がその分安くなるなんてことはまずないだろうし。

 

*

 

現在キャッシュレス決済は割合が20%だという。現金は80%。

そして現金払いと、キャッシュレスで価格が違うことは基本無い。

ということは残り八割の現金払いの人も、

キャッシュレス決済の手数料が価格に転嫁されている。

まずここには不公平がある。

でもまあキャッシュレスの利用者から見たら

金利用者も負担してくれてるのだから、得ではある。

 

*

 

仮にキャッシュレス100%になったら、すべての手数料がすべての商品価格にてんかされることになる。だからキャッシュレス利用者がコストを全額払う。

 

これで国から利用者に通貨の流通コストを移譲となる。

良いか悪いかは分からない。

だからこそ、これについてもっと話を深めてもいいのではないかと思う。

 

*

 

そもそもクレジットカードが日本に入って来てから50年以上になるが、

それでも決済割合は16%だという。

https://www.j-credit.or.jp/information/statistics/download/toukei_03_h_170630.pdf

(44ページ)

 

キャッシュレスのメインプレイヤーがやっとこれくらい。

これがあと数年でどれくらい伸びるというのだろうか。

 

*

 

そして手数料の中には金利も含まれている。

月末払いの一時的な借金だから、その分金利がかかる。

 

サービス提供者が運営会社に手数料を払っているのだから、

その金利は肩代わりしてもらっているように見える。

でもやっぱりそれは料金に上乗せされた手数料の中に含まれているのだから、自分で払っている。

 

この金利。本当に必要な金利だろうか。

月末払いである必要があるだろうか。

多くの人は、月末じゃなければ払えないというわけじゃないだろう。

無駄な金利を社会に産んでるだけではないだろうか。

 

*

 

かといってその金利のかからない、

即時引き落としがウリのデビットカードは決済比率はなんと0.3%だという。

 

*

 

手数料の中の金利というものは、正直もう少し意識されても良いんじゃないかなと思う。

 

「とんかつ屋の悲劇」の記事について思う~パロティング・道楽商売・つぶれたという表現

news.yahoo.co.jp

 

この記事やツイッターでの反応などを読んでいて思ったことがいくつかある。

 

まず年金だけじゃ暮らせないという自営業者の年金制度の問題。

掛け金が少なかったのである程度しょうがないと思うけども

やっぱり受給額が低すぎる。

 

先日、二歳の坊やを助けたボランティアの高齢男性が話題であったけど、

彼もまた月55,000の生活費で暮らしながらの活動であった。

 

生活保護と比べても低い。

つまり生活を保護できない額しかもらえてない。

だから商売を続けざるを得ない。

 

その商売に対して、きついコメントが多い。

内容は「こういう高齢者が相場を崩してるんから、早く撤退しろ」というもの。

元記事に同じ内容の一意見があり、それをほぼ丸々パロッティングしたもの。

じゃあ、死ねというのか。

(パロットとはオウムの事。

parrotingとは他で聞いた言葉を深い理解もなく受け売りし、

まるで自分の意見のように繰り返し話すこと。ネットオウムですね)

 

 

*

 

また年金者が働く世代を支えている例は他にもあると思う。

働く母親をその両親が孫の面倒を見て支えていたり、

若い世代が年金世代の持ち家の実家で暮らしていたり。

こういうものも、年金便りの安い労働力だ、不公平だというのだろうか。

ここまでくるとむしろ社会が年金世代に支えられているのではないだろうか。

 

市場ではきっと少数派で古い技術だろう年金世代のダンピングに負けてしまう、

若い世代の事業っていうのもなんだか最初から頼りないと思うのだが。

 

打ち負かしてやるのではなくて、このままだと負けちゃうから

出て行ってくれというのも解決法としてどうなんだと思う。

国際競争に比べたら、よっぽど緩いと思うのだけど。

 

そして現在居丈高に高齢年金商売は退場しろと述べる人は

自分の番が来たらキレイに消えてくださいね。

 

*

 

自分も似たようなことを書いたことがある。

けれどこれは余裕のある道楽商売の事だ。

■ - 野良馬ヒンヒン 

■ - 野良馬ヒンヒン

 

*

 

農業漁業の世界だって同じようなものだろう。

では彼らに廃業しろ、と言えるのか。

 

そもそも

とんかつ屋、そば屋、定食屋、町中華など昭和世代の営業する飲食店や小売店

競合する商売を経営している若い世代が、果たしてどれくらいいるのか。

 

長年働いてきた高齢者への尊重も感じられない。

 

*

 

こういう話題になると「つぶれた」「つぶれろ」という言葉が飛び交うこともある。

やはり数日前に放送のテレビ東京の「ありえへん世界・つぶれた店が大変身」という

番組でも、やたらつぶれたという表現を使っていた。

 

つぶれたという表現は、倒産したという意味であったと思う。

しかし今は閉店したものは全てつぶれたという。

 

長く営業して、倒産もせずに廃業した場合は、

これは店にとってのゴールイン、天寿全う、大往生である。

だから、マイナス表現を使うのはどうかと思う。

閉店したでよいのではないか。

なんでもつぶれたっていうのは雑で凄く嫌いな使い方。

なんでテレビに分波器はいってないの。

量販店のネット販売でテレビを購入。

取付もしてもらって担当者が無事終わりましたと帰ったあと、

いざ点けてみるとBSが映らない。

 

メールで問い合わせると、担当者は元々使ってた古いテレビのセッティングと同じようにしたとのこと。

 

古いテレビはチューナーを介していたのだけど、それには同軸ケーブルを受け止める端子が一本あるだけ。新しいテレビには地上波とBSの二本ある。そこに勘違いの種があったらしい。チューナーの方は中で二つに分波してるようだ。

 

一本だけある同軸ケーブルを地上波用の端子に差しただけで、説明なく取付担当者が帰ってしまったので、当初こちらは理解できなかったけど、そのようなトラブルの顛末だった。担当者は元あった通りに一本だけ挿し込めばいいと思ったということだけど、一言いってくれたら良いのに。

 

そしてメーカーの方もBSと地上波の軸を分けることもないと思う。中に分波器が入っていればいいだけなんだから。

 

*

 

調べていて気付いたのは、分配器と分波器があること。

 

ケーブル自体を分けるのを「分配器」と言い、これは出力も分かれてしまう。

 

それにたいして一本のケーブルから波長ごとに分けるのを「分波器」というらしい。

こういうトラブルの場合、波を分ければ済むので分波器を使うのが、多分正しい。

 

他人の家の子には厳しい

このページを読んでいたら、アニメ監督の押井守がこんなことを言っていた。

asahi.com(朝日新聞社):就職・転職ニュース

『僕たちは小中学校の時代から、「あなたが主役だ」「個性を伸ばそう」と言われて育てられてくるわけです。家庭でも学校でも、どこかでその考え方がベースにあって、自分は特別なのではないかと夢見がちに成長してくる。』

 

確かにそうだ。自分も夢見がちに育った。

 

『ところが社会に出た途端に、「個性だなんだという前に、当たり前のこともできないのか」と理不尽な現実に突き当たります。』

 

本当にそうだ。

 

ここで思ったことは、家庭や学校というのは身内の大人が作っていて、甘やかしてくれる。対して社会というのは他人の家の大人が作っていて、若者に異常なほど厳しい。

 

昔は中小企業が多く、会社も家族的だったのだろう。そういう小組織が社会の細胞の大部分だったから、世間自体ももっと親密だったのだろうか。他人の子も、親がいて、大切に育てられたのだから若い人を大事にしよう、という面もあったのかもしれない。

 

だが今は他人の家の子には厳しい時代になったのかもしれない。

 

 

 

山田太一と高畑勲

スタジオジブリのプロデューサーが、いかに高畑勲監督が大変な人だったかとインタビューで話していて、その人に興味を持った。映画を見たのは火垂るの墓くらいなのだけど。そこで著作「映画を作りながら考えたこと」をちょっとめくってみた。

映画を作りながら考えたこと | 徳間書店

 

とにかく膨大な文字数なので興味ある所からつまんでみようと目次を読むと、山田太一と対談をしている。

 

互いにシンパシーがあるらしく、話がはずんでいる。高畑勲はハイジを作っているときにたまたま見た「岸辺のアルバム」に強く印象を受け、再放送をずっと見ていたという。また「火垂るの墓」について話すときは「終わりに見た町」を読み返すらしい。

 

また山田太一も高畑作品が好きだという。

 

この対談は90年ころなので、その後の作品については語られていないが、別のところで山田太一は高畑作品の最高傑作は「山田くん」だと話していたのを覚えている。

 

*

 

高畑勲は今年亡くなり、山田太一は昨年倒れた。

共にリアリズムの巨匠であり、市井の人たちを描いた。

二人が現代について話をしたら、どうなったろう。

 

*

 

山田太一は、ドラマの世界は言わずもなが、音楽の世界でも小沢健二スチャダラパーに影響を与え、アニメの頂点の一つである高畑勲にもそうであった。きっと文学の世界でもそうではないだろうか。そう思うと今のうちに、達成したものを誰かまとめても良いのではないかと思う。いやそれをやらないのが、それらしいのだろうか。

一番好きなオーティス・レディングのライブ

今日、アレサ・フランクリンが危篤という情報があって、寂しく感じた。

 

初めて黒人音楽を意識したのは30年以上前の中学生時代にブルースブラザーズがテレビで放送された時。そのなかでエプロン姿でthinkをシャウトするアレサ、かっこよかった。

 

 

 

ブルースブラザーズのルーツはメンフィスのスタックスレーベルのサムアンドデイブだ、というFM雑誌の情報を基に、南部ソウルに近づいた。そのソウルの国の王様はオーティス・レディングだった。あれ、ブルースブラザーズの映画には出てなかったなー、と思ったが、そのはずで67年の12月に飛行機事故で亡くなっていた。

 

その半年前には白人ロックのフェスティバルであるモンタレーポップフェスティバルに、周囲の反対を押して登場、大喝さいを浴びた。ジミヘンもその時、ステージに(別々に)上がっていて、二人の出演をAB面に分けて収録したLPレコードは自分の高校時代の宝物だったのだけど、夏に数時間、車に入れっぱなしにしてしまい、曲げてしまった。

 

そのライブアルバムは、ジミヘンファンには高評価だが、オーティスサイドはあまり評判良くないらしい。でも自分はジミヘンサイドよりもカッコよかったし、オーティスが残した音源で最高のパフォーマンスだと今でも思っている。

 

オーティスもバックのMG’sもバリバリのノリノリに気合が入ってて、レコーディングバージョンよりもかなりアップテンポだ。観客も盛り上げってる様子が伝わる。

 

最初から最後までトップギアで突っ走るけど、最後の try a a little tenderness は、ゆっくりとはじまりじわじわと上り詰め、後半は爆発するようにシャウトと演奏が炸裂する絶唱だ。60年代ソウルミュージックというジャンルの絶頂ではないだろうか。ぜひこの曲だけでも聴いてほしいと思う。

 

それがこの動画。観れてうれしい。

 

繰り返すが、この動画の半年後、オーティスは事故で亡くなってしまう。

ウクレレを伴奏にした、朝倉さやの民謡

TBS安住アナウンサーのラジオを聴いてたら、

朝倉さやというシンガーがウクレレの伴奏をバックに、

生で民謡を歌ってたんだけど、これが素晴らしかった。

 

asakurasaya.com

 

白浜音頭というものだった。

終わってから又聴いてみたいと思ってPCのラジコのタイムフリーを開いたが、

この番組は対応していないらしい。

 

そこで彼女の音源をitunesで探すと白浜音頭があった。

しかしながらアレンジ過剰のJ-POP様式になってしまっていて、

ストレートに彼女の白浜音頭の良さは出ていないと思った。

 

あのウクレレ一本をバックに歌う白浜音頭のすばらしさをもう一度聴きたいと思い、

youtubeを漁ってみたが、番組のコピーでは歌はカットされていたし、

彼女のライブ録音の白浜音頭というものもなかった。

 

*

 

もともと津軽三味線とか江差追分などの民謡は好きだった。

現地に行ってみたりもした。

白浜音頭は千葉の南端の白浜で戦後に企画されて生まれた割と新しいものらしい。

 

*

 

ラジオのスタジオライブでの

シンプルなウクレレバックの白浜音頭は、オリエンタルでもあるのだが、

中近東や東欧の民族音楽のような響きのようにも聞こえ、

西欧的リズムとミスマッチの相乗効果もあり、

なんとも不思議な透明感を持った素晴らしい演奏だった。

また聴きたい。

 

 

ブルートゥースよりマイク端子のあるラジカセ

昔のラジカセやCDラジカセには大体マイク端子があって、これで入力していた。

カセットテープを使うカラオケ練習に需要があったんだろうと思う。

 

昨今はCDもカセットもラジオも死に体なのでラジカセ自体がほとんど見かけない。

しかしうちの家にはまだ現役でCDラジカセがあり、マイク入力もついている。

 

これがあればブルートゥースなんて設定面倒なものを使わずも、

細いケーブル一本でスマホから音が出せる。

 

ブルートゥーススピーカーが流行ってるというので、

ブルートゥースでラジオも聴けるんですよ、という倒錯した

ラジオ付きブルートゥーススピーカーをラジオ局が自社販売したら

案外売れるかもしれない。

 

いややっぱり入力穴のあるラジオのほうが手軽に使えるかな。

ギターを突っ込んでも音が出るしワザとひずみやすい素子構成にしたら面白いかも。

 

 

奥田民生のレコーダーと所ジョージの予言(?)

昨日は休みだったので、yotubeで奥田民生の「カンタンカンタビレシリーズ」を視ていた。

https://www.youtube.com/playlist?list=PLJUYLQualGBjsiGauucIoOB-TLOhXiJIg

 

これは小さなスタジオ(ほぼ作業場)で古いアナログ機材を使って宅録風に音楽を録音しようという試み。昨年の秋からスタートして十数曲分が公開されている。その十数曲が各パート回とミックスダウン回で大体4回前後に分割されているので、これまでアップロードされたものは数十回に及ぶ。

 

使っている機材は民生品(タミオヒンではなくミンセイヒン。プロ用にではなく、一般用として売り出された機材)で割と小さめのものだ。その当時は高級だったと思うけど。

 

特に素晴らしいなと思うのはテープに録音するためのレコーダー。オープンリールタイプのTEAC33-8というもの。これで録った音が非常に気持ち良いのがyoutubeからも伝わるし、完成されたアップロードを聴いてみればさらによくわかる。

lnk.to

 

 

生々しくて中域が太い。高域は弱いけど、その分上から潰してコンプされたような音色が却って心地よい。テープコンプというらしい。

 

有り体に言えば昔の音楽の音がする。逆にこれが新鮮だし、演奏した楽器の生々しさもよく再現されている。プロデュースしすぎ、加工しすぎの近年のポップミュージックに浸かっている耳には、ああ、これが音楽だったよなあ、という再発見がある。

 

これらはもう新品では手に入らないけど、中古で出回っている。欲しい人は欲しいので、まあまあの値段がついている。自分も欲しくなってしまった。遊びで録音するキーボードのシーケンサーはどうしてもクリアな音なので、ちょっと物足りなくも思う。

 

インターネットでの中古市場が活発になってきたおかげで、こういうものが捨てられずに生き延び始めたのだろうか。

 

*

 

今朝ラジオを付けたら、中古市場の流通量が主にネット上で増えているという話をしていた。コメンテイターは、これは資源を大切にする良いことだと話していた。必ずしも新品が絶対に良い、という価値観が変わってきたのではというような内容。

 

次にテレビを付けたらNHKで金継ぎの話題を流していた。震災などで被災し壊れた焼き物類のヒビや欠けを直す。接着した合わせ目に金箔を張り付けて見た目を良くする。これが金継ぎ。

 

本来は漆を使って接着するところを合成樹脂で合わせるので、素人にも簡単にできるようになってきたという。専門家が思い出の品を直したいという希望者に指導をしている。

 

*

 

もう10年近く前だろうか。テレビの特番で所ジョージが語っていたことが印象に残った。

 

みんなペットボトルから直接お茶を飲むけど、自分はグラスに入れて飲みたい。できればちゃんと急須で淹れたい。器が割れれば金継ぎして直して使いたい。みんな横着だし、古いものを粗末にするし、そういう生活が嫌い。自分は古いものを直しながら使いたいし、丁寧に暮らしたい。

 

概ねそういう話だったと思う。

 

これはコマーシャルをたくさん受け持つタレントさんとしては、大変勇気の必要な発言だと思う。ペットボトル飲料やなんでも新品を売りたい大手メーカーからや、その取次の広告会社から疎まれてもおかしくない。当然そういう面への配慮を忘れたわけでもなく、ただきちんと自分の意見を述べたのだと思う。

 

これは当時自分には予言のように聞こえた。またそういう価値観が見直される世の中が来るよという。

 

中古市場の発達や、レコードやカセットテープの見直しなんかも起こっているし、予言(?)は当たりつつあるのかもしれない

 

*

 

思えば奥田民生所ジョージの音楽に影響を受けていたはず。こういうセンスがぐるりと一周してつながったような気がする。

 

 

ふるさと納税:物じゃない返礼

自分の住んでる自治体は小さくて予算がないのか、図書館の蔵書数が少ない。

自然と数倍の蔵書量を誇る周囲の自治体の図書館に目が行く。

 

自分の市と隣接二市の図書館で、カーリルを通じて欲しい本を検索すると、

まず大体見つかる。(カーリルありがとう!)

 

隣りの市へは車を使えばまあまあの時間で行けるし、

行けば近接の他市民にも貸し出し自体は行っているので借りることができる。

 

しかし予約などの細かいサービスは、当然本市民と差別化されており、

勝手ながらちょっと残念でもある。

 

貧弱な予算しかない自治体の住民は、こういう時不便だ。

 

そこでふるさと納税と絡めて考えてみた。

ふるさと納税したら、物品ではない返礼があっても良いのではないかと思った。

つまり自治体サービスを本市民と同じ条件で使えますよ、という返礼である。

図書館に限らず、スポーツ施設や、ホールなど。

探すと他にも結構あるのではないか。

 

すると遠い地域からの返礼品狙いの納税ではなく、

近隣市民からのサービス目当ての納税も増えるのではないか。

これなら仕入れもなく、在庫管理もなく、発送もなく、

アリモノで済ませられるのだからどうだろう。

公務員の手間が増えるかもしれないけど。

 

もちろんサービスの維持費というものは大変なものであろうから、

すべて使える、ということではなく、図書館だけとか、ここの体育館だけなど、

ひと口ずつで良いと思う。

 

近隣市民との行き来や交流も増え、もしかしたらお金を落としてくれたり、

思いがけないプラスもあるのではないかと夢想する。

 

実はすでに、隣接の片方の市へはメールで数年前に提案してある。 

しかしまったく実行される気配はない。

文科省は色々と不正疑惑が明るみになってきたけど、

一連のアマチュアスポーツのパワハラ問題などについても

監督責任があるのではないかと思うと中々ごつい状況と思える。

 

野党政治家が絡む云々もあり、裏側には政治がらみでいろんな思惑が絡んでいそう。

 

 

外国人観光客にとって公営ギャンブルは魅力ないの?

カジノをやって外国人観光客を呼び込もう、みたいな話ですが、

公営ギャンブルがすでにあるので、それをインバウンド用に整備して

宣伝して外国人観光客を呼び込んだらどうだろうと思うのだが。

通話が終わったら、電話アプリの「通話終了」ボタンで確実に終了してください

OCNでんわというアプリを使っているのだけど、このアプリは

 

「通話が終わったら、電話アプリの「通話終了」ボタンで確実に終了してください。

通話終了の際は、確実に通話を切断するために、スマホ本体の電話アプリ内の通話終了ボタンから切断してください。スマホのOSや設定状況によっては、その他の操作(スマホ本体の電源ボタンを押す、など)では通話が切断されず、その間通話料が発生することがありますのでご注意ください。」

 

という使用上の注意がある。

 

そんなのある程度自動的になんとかならないのか。

人力に頼ってるんじゃ、無意味だよ、不便でしょうがないよ…

 

----------------------------------------------------------------

 

またこのアプリは通話時間が履歴に残らない。

良いところは自分の電話番号が表示されるところ。