大好きなテレビ番組「家ついて行っていいですか」が、おおよそ隔週で二時間番組になった。週一ペースのお楽しみだったのに。気のせいか、ちょっと内容も薄くなった気がする。コロナの影響で取材しづらいのかな。一時間でいいから毎週やってほしい。一週おき再放送でもいいから!
政治家を働かせるという意識
菅さんの支持率が70%越えで始まった。多少落ちたが、それでも高い方だと思う。*
このページの下の方を見ると野党の支持率トップは5.8%の立憲民主党だ。
もう与野党逆転なんて望まない。
だから今の与党、今の政権を国民のために働かせるという発想が必要だ。
政府は国民が怖くない。何やっても選挙で勝てるから舐めている。いつまでも高い支持を与えてるとこうなる。だが安倍政権も支持率が落ちると突如として国民よりの政策をやってたような覚えがある。最近だとコロナ給付金もそうだった。
選挙はそうそう行うものではないが、支持率はしょっちゅう発表される。
政府の支持不支持を尋ねられたら不支持を答えた方がいい。
点数を甘くしてたら、いつまでも国民の方を向かない。
そしてそういう空気を世間に作っていかないといけない。
かと言って正面切っての反対意見というのは、煙たがられるようなところもある。
政府の存在に反対するのではなく、今の政府を働かせるための行動としての、不支持。
これが広まるといいなと思う。
町中華とチャーハン肘問題
町中華が流行っている。もともと個人店が好きなのでドンドン隆盛してほしい。
がしかし、もはや新しく町中華を開く若い人はいないだろう。だから総数は減っていく一方だ。そこには中華職人たちの肘の問題がかかわっているかもしれない。
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これはホストでタレントの城咲仁さんの御実家でも有名な板橋の中華屋さん丸鶴。
マツコの知らない世界がまだ深夜で放送されていた時に、スタジオに来て作られていたけど旨そうだった。しっとり系の代表だったと思う。
余談だけどこのお父さんがまた色っぽくて、素敵、かっこいいとマツコが悶えていたところ、じつは城咲仁さんの父親と明かされてさすが血は争えないという話になった。
町中華の華はラーメンよりもチャーハンではないかと思う。
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自分が子供のころからだから35年ほど通っている町中華がある。最近は年に一二度だけど、それでもたまに行く。
そこのチャーハンは界隈でナンバーワンだと若いころから思っていた。
しかしそれが、衰えていた。
ベッタリして今一つキレがなく、すこし卵が焦げ付いている。以前はもっとしゃっきりした仕上がりだったのだがと残念に思った。
その時壁の貼り紙が目に入った。「チャーハンの大盛はできません」。
???
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その時思い出したのは、その隣町で15年ほど前まで営業したもう一つのお気に入りの町中華だ。旦那さんが鍋の降り過ぎで左手を痛めてしまい、まだ50代くらいなのに引退した。
チャーハンはひじを痛めるという話は他でもきいたことがある。
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ここの大将ももう70近いと思う。頑丈そうな体でも、毎日チャーハンのたっぷり入った鍋をふっていれば肘を痛めるだろう。
鍋をふる支援器具みたいなものがないだろうか。ボウリングの腕のサポーターのようなもので返しが楽にならないだろうか。鍋を下から跳ね上げる手伝いになるような板バネなどはできないだろうか。職人たちの職業寿命を延ばすのに必要だと思う。町中華フォーエバー。
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アメリカポップス界の80'sの巨人たちが早世してしまう。
エディ・ヴァン・ヘイレン、プリンス、マイケルがもういないのだ。
信じられない。
トム・ぺティももういない。
70年代や60年代の巨匠たちは案外元気だったりするのに。
寂しいなあ。
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ヘヴィメタルには疎かったので、ヴァン・ヘイレンも然りなのだけど、エディのギターは特別だった。聴いていて気持ちの良いヘヴィロックという、新発明というか、もはやエディだけの神業であった。似たような音楽は乱造されても、一線を画した。弾いているときに常に笑顔で気持ちよさそうにしているのが、また凄いし、もう怖い。
クリーム期のクラプトンのファンだったらしいけど、むしろアラン・ホールズワースやアル・ディ・メオラ的な血統が強いようにも聴こえた。ハードロックとフュージョンのハイブリッドだった。その上、神様に溺愛されていたのだ。モーツァルトとかパガニーニとかの神童というのは、こういう人だったのではないか。
実はお父さんはオランダ人、お母さんはインドネシア人(華僑系にも見える)で、オランダでの人種差別を避けてアメリカに渡り、新天地でも貧困やいじめなど苦労した前半生であった。金がなかったので突拍子もない自作ギターでデビューした。最後まで家族バンドにこだわったのは、もしかしたらそんな過去がにじみ出たのかもしれない。その上でのあの笑顔。あの才能。あの華やかに輝けるフラッシーな80年代の音。
もうでないであろう天才よ、さらば。
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伊東四朗のラジオでニュースの解説者が「ヴァン・ヘイレンさんが亡くなりました」というと、伊東四朗が「ああ」と少し反応していたのがちょっと面白かった。知ってるのかな。
自分の思い出に愛着はないが、他人の思い出話は面白い
自分自身の半生に大した愛着がないので、過去を振り返り反芻することもあまりない。しかし何故か他人の思い出話を聴くのは楽しい。
特に年上の人がポツリポツリと語る話。古いほど面白い。
しかしもう、その話を聞かせてくれていた身近な年長者たちが年々減ってきたという実感がある。もっと聞いておけばよかった。
エド山口、モト冬樹のyoutube ~ 竹田の子守歌
作業のお供として時折youtubeをかけ流す。
最近のお気に入りは、エド山口のものと弟のモト冬樹のトーク系動画。
さすがに漫談家なのでテンポよく聴かせる。内容は昔の音楽界やハコバンの話、演芸界の話、役者としての話と自分の好みの古い思い出話が続く。中にはなかなか貴重な証言なのではという話も有る。この会は仲良しだった村下孝蔵との付き合いの話。村下の最期の話が印象深い。モズライトにまつわる泣かせるエピソードも。
次は弟のモト冬樹。この会はとんねるず、特に石橋貴明との思い出話。これもファンには貴重な話があると思う。その後、唐突に日本のブルースで好きな歌だよと歌ったのが「竹田の子守歌」。名前だけ知っていたけど、いい歌だなあ。
もともと京都に伝わる民謡を60年代のフォークシーンで広まり、赤い鳥が大ヒット曲の「翼をください」のB面に取り上げた。
唄の内容は奉公先で子守をするが、盆になっても実家に帰ることはできない、向こうに親のうちが見えるほど近いのに帰ることができない、という奉公の悲しさを歌った。
江利チエミやソウルフラワーなど多くのジャンルのミュージシャンがカバーしたが、桑田佳祐もその一人。
インターネットに失望したのは
昔から、古いものが好きだ。音楽も映画も本も、新作より古典よりに惹かれる。町もそう。東京でも、東京駅から東が好きだ。昔のままの東京がまだ多く残っているようだ。外国の街には旧市街という地域がよくあるけど、東京でいえばそのような感覚ではないだろうか。歴史の蓄積に魅せられるのだろう。新宿や渋谷など現役の繁華街でも、昔の趣のある一画を見つけると嬉しかったりする。
学生時代も同級生たちは、その当時のヒット曲を追いかけるけど、自分は20年くらい前の洋楽のヒット曲が好きだったりして、話が全く合わない。友達が買っているFM雑誌は鈴木英人のキラキラしたイラストが表紙になったFMステーションやFMレコパルのファンだったけど、自分は落ち着いた表紙の歴史が深そうなFM]fanや週刊FMが好きだった。皆がキャプテン翼に夢中な時に司馬遼太郎に目覚めたり。
新しいもののスリルより、落ち着いた深みのあるものがしっくりくる。蓄積されたものの動かざる安心感がいいのかもしれない。
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10年、20年前にはインターネットは新しいメディアだったけど、意外にも古い情報が登録されていった。個人サイトや創成期のブログには、その当時中年だった人たちのかつての思い出や出来事の記録が載っていった。そもそも他人の思い出話を聴くのが好きなので個人的に面白かった。
いまよりも、10年前のネットの方が、情報が豊かだったと思う。多様性や深さがあった。商業主義も今ほどではなかったし、各サイトに各人の味わいがあった。主観でしかないけど、共感してくれる人も多いと思う。
今はプロバイダーはいくつかの大手に集約されていると思うけど、20年前は各地に小規模のプロバイダーがけっこうあって、それぞれに個人ホームページやブログのサービスを持っていた。
そういったサイト群は、プロバイダーの集約と共に姿を消した。小さい物だけでなく大手のプロバイダーも個人用サービスを終了した。そこに蓄積されていた沢山の文章や思い出や記録はデジタルの芥となって消えた。
ブログを終了させる前に亡くなった人も20年の間には結構いたろう。そのページを愛おしく眺めた遺族もいたろう。亡くなった人の使用したパスワードを残された人たちが覚えていることもほぼなかったろうから、サーバーの移動もできなかったろう。そもそも存命の人間たちの多くも、いまさら移動してブログを続けた人は少ないと思われる。
15年ほど前、GOOGLEは地球上のすべての記録を網羅するだろう、みたいな景気のいい予言をしていた人がいたけど、各社サーバーの維持費にはかなわなかった。
yahooのブログや個人サイトが沢山消えた時は、無念であった。自分はそこになにも持っていなかったけど、こうやって記憶は消えていくのだと無念になった。ネットに対する最大の失望はこの時だったと思う。
歳をとるほど新しい物への完成は鈍る。それを悲しむというより、単純に興味が薄れていくので、情感も特にない。それよりも昔のことを確かめたくなるのだ。自分が子供のころの出来事のあらましや、それ以前のこと。自分より上の世代がブログや個人サイトで綴っていてくれたもの。もう一切消滅してしまったのかと思うとそれがつらい。
初めて聴いたレゲエはトゥーツ
レゲエは疎いのだけど、初めて聴いたのは中三のころの『トゥーツ・イン・メンフィス』。週刊FMの名盤ベスト100みたいな付録本で紹介されてました。
ジャマイカのトゥーツ・ヒバートが、ファンだったアメリカのリズムアンドブルースを憧れのメンフィスでカバー録音するという、レゲエとしては変化球なんだけど、その分、馴染みやすく聴きやすかったので好きだった。ジャケットがもう嬉しそうで、こちらも嬉しくなってくる。
そのトゥーツが亡くなったらしい。ミック・ジャガーも追悼している。
So sad to hear of Toots Hibbert’s passing. When I first heard Pressure Drop that was a big moment - he had such a powerful voice and on stage he always gave the audience his total energy. A sad loss to the music world. pic.twitter.com/CAs9VF4X41
— Mick Jagger (@MickJagger) 2020年9月12日
寂しいですね。ご冥福を祈ります。
ミックは『プレッシャードロップ』というアルバムの衝撃の大きさを振り返っています。
これはカントリーロード! これもすごくいい。
これは代表曲ファンキーキングストン
なんとなくトゥーツの大らかそうな歌声が魅力でしたね。合掌。
年金猶予、却下された。
年金の支払い猶予の申請を五月の終わりにしたら、今日却下された。勘弁してよ。
金融緩和の実現だけはすごかったと思う
安倍さんは金融緩和だけはすごいことをした。
誰もができない、やったらすぐ破綻する、くらいのことを多くの学者や政治家が言っていたがやりのけた(やるべきと言っていてのは記憶の中では森永卓郎と亀井静香)。これは反緊縮の根本なので評価するべき。この時はすごい総理になるかもと思った。
そして消費税を上げるまでの半年間は、指標も実態も経済は良かったはず。でも消費増税してしまったので、すべてチャラ。いやマイナス。いくら株価が上がっても、大企業肩入れで格差が広がったので、あとは暗黒の八年間。経団連や官僚に手綱を握られたのか。消費税を上げずにいたら、日本は今頃すごかったかもしれない。
外交と国防も、まあこんなもんじゃないかと思う。〇ではないけど△くらい。後はダメ。お友達優遇イメージや、特に公文書管理に関してはもう本当にダメだと思う。
株価が上がったことを評価する人も多い。日銀買い入れは良いけど、外国資本家に大分流れたのではないか。日銀ドーピングの反動がなければよいが。失業率改善は団塊の世代の自然退場が大きかったのではないか。自殺率減少はそれに伴って経済的理由が小さくなったのと、15年前から減少は始まっていた。
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日本人は優しいと思う。
最高責任者が病気で辞任となっても本当かなという疑問は持たず、お疲れさまでしたという反応がほとんどで、疑念を挟めば怒られそうなくらい。
本当に病気の悪化なら、一人のご病人としてご静養くださいと思う。
しかし検証できるものではないのだから、何もかも鵜呑みにするのもどうだろう。
本来だったらオリンピック閉幕、最高在位記録更新と花束ばかりの日々だったろうこの時期。ここまで官僚やマスコミは忖度を重ねてきただろう。ウィルスは忖度してくれない。この秋以降の難しさを思うと、気力が尽きるのも分かる。だがこの後、泥をかぶる人間はどうすればいいのだ。
憲法改正も途中からは諦めていたのではないか。本当に国民投票を目指すならば、一般に浸透するまで議論を尽くすべきだったろうが、本丸の議論は内輪から出ていくことはなかった。しかし掲げていれば保守層の支持が落ちることはない。
ドラマ:オリーブ・キタリッジ ~ アマゾンプライムビデオより
アマゾンプライムビデオから「オリーブ・キタリッジ」を選んで観てみた。
結論は、面白かったという以上に見応えがあった。しかし広くお勧めするわけでもない。
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地味なドラマである。
ニューイングランドの海沿いの田舎町の夫婦の話で、妻が主人公のオリーブ。中学の数学教師。堅物で、傲慢といえるほど頑固。学校でも生徒人気がなさそうだけど、家に帰っても夫に不平不満、嫌み、皮肉の連打。自分の教える学校に通う反抗期の息子をガミガミこき下ろし、ビンタで折檻。とても親近感は持てない。
観る側に救いなのは小さいながら薬剤店経営者の夫。穏やかで優しくて、お店の客さんにも親切。妻にも従って、合わせてくれている。多くの人は主人公よりも、この人のファンになるのではないだろうか。
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以上が設定。そしてドラマチックなことはあまり起きない。少し起きるんだけども劇的な解決には至らない。消化不良というよりも「そうだよね、普通はそんなもんだよね、映画やドラマは大げさだからね」と納得し、顛末に共感する。非日常の出来事に巻き込まれるスターを観てわくわく興奮するというよりも、画面の中の登場人物をいつの間にか隣人として観ている感覚。
フィクションなのだけど、テンションは上がらない。出てくる人も癖はあれども、普通の人の範疇だ。無理に盛り上げないのがこのドラマの基調となっている。なのに観てしまう。なぜだ。
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我々は実際の自分の隣人をよく知っているだろうか。よく知らないから特に関心も興らないという面はないか。興味をひかない人でも、生活ぶりや内面をよく知る機会があれば、その人に心を寄せることもあるだろう。
夫やそのほか登場自分物も味わいがある描き方をされていて、誰もがなにがしかの意味を持っているように見える。地味で平凡な人々なれど、知るほどに
なかなか食えない主人公なれど、人となりや周囲の人を良く知るようになると、この家族の行く末が気になる。主人公よりも、この家族のリアリティやこの物語全体に向き合ってしまう。
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日本だと、向田邦子や山田太一や木皿泉だろうか。いやそれよりもドライで辛口だ。 最後の最後まで、劇的なるものを避けて、それでいて見応えを作るという、アンチドラマチックなドラマ。お見事。
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海外のホームドラマは生々しい生活感の描写が面白い。これもその一つ。