野良馬ヒンヒン

思いつきを記録しています。下らぬものです。

ネット上で傷痍軍人の話が少し出ていて、自分が覚えているものを書いておこうかと思った。

 

70年代の終わりごろ、成田山の参道の一角で見た。片足や片腕が無かった。汚れた兵装風の服を着ていて、座り込んでいて何か楽器を演奏していたようにも覚えている。その頃自分は五、六歳でとても怖かった。

 

その二、三年後だから80年代の頭ころ、ある年の天皇誕生日一般参賀の日。東京駅から皇居に差し掛かったあたりでアイスを売っている片手首がない人がいた。その人にお金を渡すと、袋入り棒アイスを頭の方からその手首の部分で押して、袋から剥いてくれた。その人は普通の格好だったと思うけど、きっとこの人は戦争で片腕を失ったのではないかと勝手に思い込んだ。この人がいわゆる傷痍軍人なのかは分からない。

 

こういう人たちは、本当に戦争にいったかどうかは怪しいという話も聞いたが確かめることもなく、その後数年のうちにみんないなくなったと思う。

若い頃に短期間、現場系のバイトに一度通ったことがあった。すると初日に社長からいい教えを聞いた。

 

1 なるべく作業着は汚すな。いい職人は汚さない。汚いと他から舐められる。

 だからだらしなく土の上にベタっと座るな。

2 仕事は両手を使え。

3 誰かが目の前で作業していたら、必ず手を出して手伝え。

4 車のドアは静かに閉めろ。騒音にうるさい住宅街は当然。普段からもやって癖にしていないとダメ。

 

これは現場系じゃないバイト先や職場に行っても役に立った。それ以外は常識外れのキ○ガイじみた社長だったがこれは素晴らしかった。今でも役に立っている。

 

それがこの数日、近隣で夜中に工事が行われていて、その工事車両のドア音がうるさいうるさい。あの社長を送り込みたい。

 

 

 

 

今週のポッド許可局:映画「花束みたいな恋をした」

ポッド許可局の三人が「花束みたいな恋をした」と言う映画の感想を言い合っていた。

 

映画は文系サブカル的な趣味が合い同棲生活を始めたカップルの始まりから終わりまでらしい。

 

それぞれが映画に現れる固有名詞にやられたという。有名なアニメ監督や、好きな音楽など。

 

どうもそう言うアイテムで刺激を受ける映画のようだ。

 

三人がの会話の中でプチ鹿島が言った「無人島だと思っていたら仲間に出会えた経験」と言う感覚に胸を打たれた。

 

誰にもわかってもらえないような自分の好きなものの話をわかってくれる人がいた時の喜び。

 

男女に関わらず、語り合える友人を得ると言うのは生涯の喜びだ。鹿島は自分にとってはとして、この番組のマキタスポーツサンキュータツオの二人をさりげなく上げる。

 

自分にも昔はそう言う得難い仲間がいたのでけど諸事情でバラバラになった。長年、仲のいい許可局の三人が羨ましい。


今は話の通じる友人がいない代わりに許可局の放送を友達の会話のようにを聞いている。これからも末長く放送を続けて欲しい。

BS-TBS 報道1930 20210310 イベルメクチン 実用化を阻む3つの壁(実験資金が足りない)

寄生虫薬としてイベルメクチンが広くいきわたっているアフリカでは、意外にもコロナが拡大していない。予防薬としても期待できる。

 

実際世界16か国でコロナに対して使用されている。

 

しかし現在日本ではイベルメクチンをコロナに対して使うには、本来の目的外で利用するしかなく、医者個人の責任となってしまうので、積極的に使いづらい。

 

またイベルメクチンは高価なレムデシビルと比べて薬価が安く、高い収益が望めない。そのため臨床実験が進まない。

 

北里大学で臨床実験をしているが、Amedからの資金4億円ではとても足りない。30-40億は必要。そうすると様々な協力を得られて実験も早く進む。

 

海外の実験と連携する必要もある。

 

海外の臨床結果にもいろいろあり、悪い結果の物がなぜかメディアで取り上げられがちだが、内容を見るとチグハグで有効な論文ではない可能性高い。

 

逆に発展途上国での論文できちんとした内容の好結果の物もあるが、なぜかこれは取り上げられない。

 

 

www.bs-tbs.co.jp

今週のポッド許可局:キモイ論

マキタスポーツの十代の娘二人は何かというとキモいの連呼。何をしてもキモいといわれてしまうマキタ。カメラのファインダーから目を外し、娘たちが可愛いなあという思いで見るとキモイと言われてしまう。

 

その反対はカワイイらしい。老眼鏡を頭に載せてテレビを見ていたら、今度はカワイイと言われた。娘たちは毎日キモイとカワイイをさえずっている。

 

かつて批評性のある笑いを求め、談志・たけし・爆笑問題浅草キッドに影響を受けていたころ、ネプチューンの笑いでウケている妻が理解できなかった。

 

感覚で生きている娘たちに対して、論理を突き詰めたいマキタは、そのせいで失った感性があるのかもしれないと危惧を抱く。キモイ/カワイイ感覚を取り入れていこうと考え始めた。

 

プチ鹿島曰く、我々にとっての「キモイ」はウエスタンラリアットのように強力だが、彼女たちにとってはそこまで重い意味はないのかも。キモイ、とオジサンが言ってしまうとネガティブすぎるので「カワイイ活動」をしていった方がいい。まだ娘が小さいので、今を大切にしたい。

 

サンキュータツオが言うにはマキタはオジサンの中では、かなりカワイイほうだ。頑張っている。「キモイ」は、男にとっての「うるせぇな」に近い気がする。キモイもカワイイも、主導権の主張なのではないか。売れてる人ってカワイイ。

 

*

 

 25歳だったコーナーの女性リスナーからのメール。

 

何者かになりたい、成し遂げたいという空回りの日々。

しかし勢いで結婚し、25歳で女の子を産むと一変。

何度も心が折れかけたが、いつの間にか何者かになりたいという欲求がなくなった。

何物でもない自分を求めてくれる赤ちゃんのおかげ。

生きていくのが楽になった。

25歳で子供を産んだのが一番のターニングポイント。

 

 マキタ「子供が親にしてくれるんだ」

タツオ「あんた子供が生まれた時、バンド組んだろ」

鹿島「いい”老害”でました」

 

*

 

牛乳パックの開け方。

牛乳パックの正しい開け方を知らず、はじめて説明書き通りに開けたらこんなに簡単なんだと感動したというメール。

 

マキタは、高校まで家族全員力づくで開けていた。東京出てきてから始めてやったかも。

 

鹿島は、今日初めて正しい開け方を知った。「初めて見た」。

 

*

 

静岡のおじがシラスをくれて、おすすめの食べ方を教えてくれた。

刻んだニンニクとシラスをごま油でいためてしょう油で味付け。

水分が飛ぶまで火にかける。

 

 

 

youtu.be

 

*

 

今週も楽しい話、いいハナシが聞けた! 許可局有難う。時間が変わっても聴き続けます。同世代のこの三人と一緒に歳をとっていける幸せ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今週のポッド許可局:キモイ論

マキタスポーツの十代の娘二人は何かというとキモいの連呼。何をしてもキモいといわれてしまうマキタ。カメラのファインダーから目を外し、娘たちが可愛いなあという思いで見るとキモイと言われてしまう。

 

その反対はカワイイらしい。老眼鏡を頭に載せてテレビを見ていたら、今度はカワイイと言われた。娘たちは毎日キモイとカワイイをさえずっている。

 

感覚で生きている娘たちに対して、論理を突き詰めたいマキタは、そのせいで失った感性があるのかもしれないと危惧を抱く。

 

プチ鹿島曰く、我々にとっての「キモイ」はウエスタンラリアットのように強力だが、彼女たちにとってはそこまで重い意味はないのかも。

 

サンキュータツオはマキタはオジサンの中では、かなりカワイイほうだ。

 

 

料亭政治は聞かなくなったけど

昔は料亭政治と言われ政治家が揶揄されたので、最近は皆遠慮しているのか政治家が料亭に出入りする話を聞かなくなった。聞かないだけかもしれないけど。

 

そのせいかここのところは官僚の会食接待のニュースの方がにぎやかだ。

 

官僚がいくら不祥事や違反を起こしても、名前と顔がほとんど表に出てこないので、実質やり放題に見える。

 

権力があるから接待を受けるわけで、それでいて私人だからさほど深く追及されるわけでもない。退職でもしたら私人のカーテンに阻まれ、その後の待遇なども分からない。

 

ある程度の高級官僚はもう私人ではなく完全な公人としたらどうだろう。それが嫌なら退けばいいと思う。

差別と個人的な好き嫌いの差

属性を嫌悪すれば差別だろうけど、個人的に嫌いなのだという体にすれば、差別もまかり通ってしまうかもしれない。この差はどうしたらよいのだろう。差別の定義も変わってくるのかもしれない。

今週のポッド許可局:見方が変わった論

今週の許可局も面白く、深かったので初めて要約で覚書にしてみた。もしかしたら聞き違いがあるかもしれません。

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最近見方が変わったモノは何? というタツオの問いから始まる。

 

タツオ:ドラえもんの登場人物の中で芸人に向いているのは屈折した感性のスネ夫だと思っていたが、現在は出木杉君だと思う。なんでもそつなくできる。芸人像がアップデートされてきた。

 

鹿島:見方も状況も変わった。見方が変わったモノと言えば、一休さんと将軍の関係。殿様側からみると、殿様の懐の深さが印象深い。

 

マキタ:タイムボカンの悪役三人組が負けて帰っていっていったのが、現在は悪役も生き生きとのびのびしてる感じがする。

 

マキタ:ボクシングの観戦の見方が、ディフェンスベースで見るようになった。かつてはタイソンのような攻め型が好きだったが、防御のうまい方に惹かれる。撃たれず生き残る。ボクシングは攻撃ではなく、防御なんだと思うようになった。

 

タツオ:バスケットボールもそうで、日本人の渡辺雄太がNBAで活躍してるが、防御が上手い。NBAの華はオフェンスで最近は特にそうだが、意外に得点王のいるチームは勝てない。優勝チームの監督はディフェンスの専門家。渡辺が日本で取り上げにくいのはディフェンスの名手だから。得点シーンを切り取りにくい。カナダで大人気。ディフェンスのいいチームは相手の得点を抑えて勝つ。ロッドマンがすごかったのもディフェンス。それだけリバウンド獲れたのは位置取りがいいから。

 

タツオ:落語家のお年玉はあった人に直接渡すが、立場の離れている人との接触するためにそのシステムがあるのではないか。

 

鹿島:ベタ=古さと隣り合わせに感じるようになった。

 

タツオ:ベストテンとかを見ると安心するのは、古いものを古いものとして出してくれるから。

 

鹿島:クドカンの俺の家の話のプロレスシーンを見てると、その丹念さを感じる。するとドラマの本筋である介護についてのリサーチも深いはず。最初はプロレスシーンに惹かれたが、そこから本題に目が向くようになった。プロレスをこれだけ書ければ、本題も信用できるだろうと思った。些末なディティールから本質へ目が向いた。

 

タツオ:ディティールが書けてれば、本題も書けているはず。

 

マキタ:スポーツも細部が見えてこそ。

 

鹿島:攻略本を見てからゲームを進めるひとや、ミステリー小説を後ろから読む人を信じられない思いだったが、そのほうが細部や複線をより楽しめるという。

 

タツオ:二回目以降の落語と同じ。最初の物はすべてがディティールなのですべてを「全集中」で見ちゃう。筋じゃなくて細部を楽しむやり方。

 

マキタ:最近のテレビはディフェンス力が高い。かつてはオフェンス力がすごかったが、ロスも多かった。いまはロスを減らす方法がある。

 

タツオ:対してネットはオフェンシブ。迷惑youtuberなど。ルールもまだ甘い。徐々にディフェンシブになるだろう。

 

マキタ:自分も配信をやってみてテレビってすごいディフェンシブな論があると思った。

 

タツオ:見ている人に突っ込ませないような。うまいことラッピングしたり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

元AOL民はどこにいるのだろう。

anond.hatelabo.jp

 

これを見てたら、自分のネット上の来し方はどうだったかと思い返した。入口はAOLだった。あの頃どのPC雑誌や一般情報誌にもAOLの開始CD-romが入っていて、多くの人が手にしたのではないかと思う。

 

チャットルームが売りで会員同士で会話していた。直に会うことはなかったけど、仲の良いアカウントが幾つかできたりして、チャットルームに出入りするのが毎晩の楽しみだった。またこのころはチャット≒出会い系というわけでもなく、のんびり趣味やテレビの実況みたいなものをしたりして過ごした。「昭和47年会」みたいな生まれ年ルームを最初に作ったのは自分だった。

 

今のSNSが提供しているサービスの根本的な楽しさみたいなものは、すでにここにあったと思う。その後にであった後発サービスは単にバリエーションが増えたというだけに思えた。

 

そんな元AOL民の自分だけど、自分以外の人がAOLの楽しかったこと、つまらなかったこと、何でも良いのだけど、どこかで語っていたのを見たことがない。本当にあれは存在していたのだろうかと思ってしまうほど、見かけない。

えひめ丸の事件は丁度二十年前の2月10日であった。その対応をめぐり森喜朗は総理を辞任。そして二十年後の2月4日に今回の失言があった。嫌な奇遇である。結局国民軽視が過ぎた。身の回りの身内だけを大切にするのだろう。

 

森喜朗えひめ丸事件の対応を批判されたのに、なぜかその後二十年の間は主に森派の隆盛が続いた。小泉・福田・安倍と三人の総理を出し、うち二人は長期政権だった。わいろも含めて利益分配主義だった田中派の流れは絶たれ、緊縮主義の福田派(森派)に流れがきた。よってこの二十年の間、消費税を上げ、法人税を下げた。社会保険料を上げ、還元を下げた。国債は株の買い入れに当てられ、その責任は国民にあるという形に巧妙に洗脳した。結果可処分所得は大幅に下落した。つまり国民は貧乏にされた。

 

森派王朝の最高の栄華を極めんとする五輪は棚ぼただったかもしれないが(そういえば小池百合子も元々森派であって小泉政権で活躍した)、その果実を目の前にしてコロナという槌で夢は砕かれた。安倍総理は辞任し、森会長も辞任する。

 

何かが変わるのかもしれないという予感はするが、与党野党を見ても任せたいと思える人はいない。しかし我々のその無関心こそが森派を支えた原資だったのだ。この二十年で投票率は約6割から5割に下がっている。

今日も我が家族はコロナを発症していない。

ということは5日前までの生活に不備はなかったということだ。五日前までさかのぼって安心できる。だがその後の五日間はどうだろう。心休まる日がない。初めて胃炎になった。胃カメラしんどかった。

【ジュリー】あんまり語られない沢田研二の凄さ【ジュリー】

news.yahoo.co.jp

 

この中に書いてあるようにジュリーは毎年ツアーをやってきたらしい。

これだけでもすごい!

 

しかもwikiをみると、もっとすごいことが判明。なんとザ・タイガースでデビューしてから2008年までほとんど毎年オリジナルのアルバムを発売している。その数50枚以上。編集盤ではなくオリジナルですよ。日本記録じゃないのかな、コレ。

沢田研二 オリジナルアルバム - Wikipedia

 

さらに1975年から2017年までの42年間に舞台を49本出演してる。平均したら年一本以上。

沢田研二 ステージ- Wikipedia

 

そうするとデビューしてからこれまでほとんど毎年、オリジナルアルバムを発売し、全国ツアーをやり、舞台に一本以上出演してるって、スーパーマンじゃないの! 

 

この上、ベストテン歌手として全盛期は毎週のようにテレビの歌番組やバラエティー番組に登場していたのだから、もう褒める言葉が見つからない。

 

 *

 

昨年岸部シローさんが亡くなったけど、タイガースというのは京都の音楽少年たちのバンド物語だった。関西のライブシーンで活躍していた彼らは東京の内田裕也に直談判し、デビューが決定。しかし最後はいかにもな芸能界的事情に翻弄され、人間関係を引き裂かれ空中分解という寂しい末期を迎えたグループだった(数年前のスマップ騒動のような所属事務所による主導のもの)。

 

独立後、ソロで栄華を極めたリードシンガーのジュリーも時代が変わり売り上げが低迷したころ、なにが原因になったのか事務所と物別れとなり、以降テレビでは見なくなった。

 

だが近年六人そろってのステージを成功させ、その友情の復活がかつてのファンの心を打った(しかしながらあんまりテレビでは大々的な報道は見なかったが)。

 

しかしこうして50年経っても活動を緩めることなく続けたジュリーは反骨の人として輝き続けている。バンド物語としては大河的なスケールの日本音楽史に残るグループだった。(もう少し経って事情が変われば)やがて三度彼らに光が当たるだろうと思う。

東京ポッド許可局員たちの青春

1/11のTBSラジオ「東京ポッド許可局」の放送がすごく良かった。

 

マキタスポーツプチ鹿島サンキュータツオのそれぞれが25歳のとき何をやっていたのか。

 

マキタは国士館大卒業後に勤めた山梨の親戚経営のモスバーガーの店長をやめたのち、葛飾区に移り住んでいた。バイトをしながら小劇団に入り漫才の相方を探していたが上手くいかず、毎日文化放送志の輔梶原しげる吉田照美ニッポン放送高田文夫を聴いて過ごしていた。

 

PKは大阪で大学時代を過ごし、チェックユアマイクのラップ大会で日本一になったものの、なんとなくラップをやっていただけだったので、東京の高円寺に出てきてバイトとテレビでのナイター観戦の生活。お笑いで何かをやりたいけど大川興業に入るまで五年ほどの間は、高田文夫のラジオを聴くだけで無為に過ごしていた。

 

サンキュータツオは大学生活しながら漫才をはじめ、浅草お兄さん会で二人に出会う。就職活動は上手くいかず、院進するもなかなか卒業できず留年しているうちに25歳。

 

みなそれぞれ鬱屈した二十代前半を過ごし、どうにかせねばという年齢だった。彼らと指向や素性が似てる自分としては懐かしく共感し続けた一時間だった。あっというまの二十五年。あのころ三人に会いたかった。友達になれたのではないかと妄想してしまう。

 

youtu.be

 

その他、桑田佳祐は25歳の時どうだったか、落合博満は、ユーミンは…という話も。

ユーミンが16歳のころ、市ヶ谷にあったはっぴいえんどの事務所で、後の夫の松任谷正隆松本隆とともに市ヶ谷記念館のバルコニーで演説する三島由紀夫を生で見ていたというのが事実だったらしく、衝撃を受けた。

 

bunshun.jp

 

実はユーミンも三島も良くは知らないのだけど、戦後の昭和の前半の文化における寵児の三島と、その後の世代のの代表選手のユーミン

 

戦後から60年代くらいまでの文化は、まだ教養主義的で発信側も受信側も男性中心という(あくまでも自分の中の勝手な)イメージだったのだけど、70年代以降というのは感覚的で発信も受信も女性の割合が高くなっていったと感じていた。

 

その両側を象徴するような二人が、ここで偶然ながら、数十メートル(数百メートル?)の距離を置いて交差していたというのは、何ともシンボリックな事件だと思う。

 

しかも一緒に見ていた松任谷正隆は、実は愛国者の大物の血筋の人間なのだから、運命というのは何とも不思議だ。

 

gendai.ismedia.jp