零細なんでワクチンの予定なんて見えません。
老親と暮らしているので早くなんとかしたいのですが。
職域接種って大企業優先なんですよね。
これは命の選別にならないのでしょうか。
経団連がねじ込んだんですかね。
零細の命なんて価値がないんでしょうね。
テレビやラジオの世界なんかも接種してるんでしょうか。
案外やったかやらないか口にしませんよね。
私たちはもうやってますなんて顔で報道してたら反発が大きいでしょうからね。
電通はとかはどうなんでしょうか。
作品と人格は分けて考えるべきと言うのも、理屈としては分かるけど現実はどうだろう。
熱心なファンほど音源だけではなく、それ以外にもインタビューや文字情報を多量に読み、文脈を理解し、ファッションやライフスタイルまで追いかけ、人柄まで愛してるものではなかろうか。
そうしておいて、作品と当人は別、と言うのはなんか違う気がする。
そもそも(特に日本の)ポップミュージックはタレント性をかなり含めていると思うし、ポップスの本質とはそう言うミーハーなものだと思う。
かと言って不祥事のときの作品販売停止というのはまた別の話だけど。
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チョット追記。
「作品と人格は別か否か」という問題と「作品に罪はないか否か」という問題は、一旦分けて考えた方がいいのかなと思う。その後統合して考える。
五輪開会式の音楽家がかつて高校時代に凄惨ないじめをやっていたという話。
アレは本人がインタビュアーの前で悪ぶって大分大袈裟に粋がって見せたら、引っ込みがつかなくなったというのが事実じゃないだろうか。
自分の知人に彼と同期だった人がいたけど、そんな悪評は聞かず、むしろ普通に良いやつということだった。その知人は教育関係で熱心に仕事されていた正義感の強い人なので自分はその見立てを信用している。(むしろもう一人の方が…ということだった)
彼や彼の仕事、属するシーンは虚構性が強いイメージでどこまでが本当なのかよく分からないところがあった。この話もどこまで裏が取れているのだろうか。本人が語ったから事実というのも、根拠として良いのかというくらい藪の中という気がする。
ここまでインパクトのある内容じゃ無くても、当時インタビューの内容がいい加減ということは普通に多かったと思う。
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やっぱり本当だったと言うことで謝罪。
アレが事実だったと言うおぞましい結果に。
本質的に犯罪行為も含まれている。
相手や環境が訴えにくいから、刑事罰を免れただけ。
直接会って謝罪というが、相手も心痛だろう。
賠償金を払うべきではないだろうか。
最近、二十年前に買ったフルアコ(空胴のエレキ)のギターを弾いてる。臨時収入があったのであまり知識もなくなんとなく手を出してしまったやつ。中国製でフルアコの最安値だった。当時は買ったもののなんだか気に入らなくてほぼ放置していた。
中古店に処分するかと手に取って弾くと(大して弾けないけど)すごく良い。二十年経って自分の感じ方が変わったのかもしれない。生白かったボディも良いように黄変して味が出てきた。
そもそも製作のレベルが高いのだろう。数年前に合わせたチューニングもほぼ狂わず、少し調弦したらネックも弦もそのままでピシッと和音がきれいに響く。Ibanezさん実用的な素晴らしいギターです、どうもありがとうと言いたくなった。コード進行を考えてループさせて、適当にメロディを乗せるだけなんだけど、上手くいくと楽しくて仕方ない。
合わない、要らない、と思ったものでも何かの変化で好きになることもあるという事実にちょっと胸を突かれた。
(まだ春日氏の本は読んでない。動画で話してるのを少し観た。もう何本か観たら読みたい。)
描かれている時代は幕末くらいで、映画がつくられているのは60年代。
かつて根本敬が昔の日本映画を見ていると出てくる人が自意識が低いということを書いていたが、全くその通り。簡単に言うと、今ほど他人の目を気にしていない。縛られていない。もちろんフィクションだから直接的ではないけども、画面から感じるものがある。人の間の風通しが良い。
意外にも現代の我々が参考にすべきは昔の日本人なのかもしれない。
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それにしても座頭市のスカッとすること。勝新版の西部劇である。殺陣も舞の様に美しい。
盲目の一匹狼の按摩が、組織の大きさに甘えたヤクザや役人侍をバタバタ切り倒すのは、ご都合主義とは言え気持ちいい。
市は粗野で卑しく見えるが、一方で繊細で優しく、ユーモアにあふれ、常識をわきまえ、三味線や小唄が上手い(元々、勝新は三味線の天才少年)。だから女にモテる。特に繊細さを分かち合えるイイ女にモテる。
設定とは言えカッコいい。出来過ぎだけど、何故か引き込まれてしまう。今夜も見ようかな。
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そんな座頭市。今のテレビじゃ流せないほど差別用語の連発なので、多くの人が触れられないのは仕方がないけど、もったいない。この映画には我々と座頭市の彼我の差において、何か考えされられるものが詰まっている気がするのだ。
シロクマ先生が新著を出される。先生は承認欲求という言葉を広めた人だと思っている。かつて「認められたい」という本も書いていた。そういう時代なのだろう。
承認欲求と言うのは他人に認められたい、他人の価値観で良しとされたいと言う、あくまでも他人軸の価値観頼みであり、我々現代人というのはそれをすでに内面化しているように思う。まあある程度はわかる。だれでも誉められりゃ嬉しい。
でもあまりにも他人に寄りすぎて無いか?
それに抗っても自分軸の価値観や、痩せ我慢でも己の考えをまとめて立って行こうって言うのが、自分自身の確立なんじゃ無いのかねと思う。
しかし今の特に若い人たちは違うのだろうか。
今の若い人たちは、言わば情強である。頭がよくスマートで効率的である。優秀だ。
その素晴らしい世代が、(おそらく同世代の)他人の目にはすごく弱いらしいと言うのが不思議でもあるし、なんかわかる気もする。
もっと雑でモノを知らない、例えばスマホなんて触らない中高年の方が鈍感という強さを結果的にまとっていて、自由そうなのも面白い。
他人の目から卒業することが実は現代人にとってすごく重要に思えるし、その先の成熟がまた楽しみでもある。それはもしかしてある意味空虚なのかも知れない。例えば十牛図みたいな世界かも知れない。
清水ミチコの話を聴いていたら、お母さんは森繁の駅前シリーズなどの喜劇映画が好きだったらしい。これは井伏鱒二の駅前旅館を原作とした60年代のヒットシリーズだ。
駅前シリーズは「駅前温泉」を見たことがある。森繁に伴淳三郎 フランキー堺 淡島千景 司葉子 三木のり平 淡路恵子 池内淳子とオールスター出演の豪華な内容。ドタバタコメディだけでなく、開発されていく喜びにあふれた磐梯や旅芸人の親子のエピソードなど、深い話も紛れていてとてもいい映画だった。
その中で印象的なのは大浴場の「三助コンクール」で踊る柳家金語楼のおかしさだった。見ているだけで噴出してしまう。
この人がどういう人だったのか、今はあまり話に上ることもないので調べてみると、結構興味深い。
父親も落語家で、本人も天才少年落語家としてデビュー。父親が旅回りの一座を率いて全国を回るのについて行く。その時に妻吉という両手のない元芸者と知り合う。
この妻吉という人も今はあまり知られていないけれど、なかなか凄い人である。大阪で堀江六人斬りという刃傷沙汰があった。妻吉の養父でもある芸者置き屋の主人がとち狂い日本刀で愛人の芸者らを殺傷した。その被害者の一人だ。両腕を切断され口の中に刀の切っ先を挿し込まれたが、たった一人生き残った。そしてその養父の死刑執行後の遺体を引き取り墓を立て埋葬までした。その後、口で書を書き、書家・仏門で住職ともなった大石順教という著名人になるが、この人を金語楼少年は姉のようにしたい終生仲良くしていたという。妻吉に字を教えたのも金語楼だったらしい。
その後成長し徴兵。除隊後は兵隊落語をヒットさせ、喜劇にも進出。落語芸術協会の前身も立ち上げたが、噺家は他の仕事はできないルールがあったらしく(!)、警察庁に噺家の資格を返上している。
その後は映画でも大活躍、顔や動きの面白さで笑わせる芸風だったが、落語で鍛えた語り口は柔らかく、残っている映像でも独特の魅力を持っている。
最近思うのは、もう右も左も関係ないのね。
元々右も左も嫌いだし。
シンパシーを得るのは右寄りの左とか左寄りの右とか歩み寄れるタイプ。
ネット上で傷痍軍人の話が少し出ていて、自分が覚えているものを書いておこうかと思った。
70年代の終わりごろ、成田山の参道の一角で見た。片足や片腕が無かった。汚れた兵装風の服を着ていて、座り込んでいて何か楽器を演奏していたようにも覚えている。その頃自分は五、六歳でとても怖かった。
その二、三年後だから80年代の頭ころ、ある年の天皇誕生日の一般参賀の日。東京駅から皇居に差し掛かったあたりでアイスを売っている片手首がない人がいた。その人にお金を渡すと、袋入り棒アイスを頭の方からその手首の部分で押して、袋から剥いてくれた。その人は普通の格好だったと思うけど、きっとこの人は戦争で片腕を失ったのではないかと勝手に思い込んだ。この人がいわゆる傷痍軍人なのかは分からない。
こういう人たちは、本当に戦争にいったかどうかは怪しいという話も聞いたが確かめることもなく、その後数年のうちにみんないなくなったと思う。
若い頃に短期間、現場系のバイトに一度通ったことがあった。すると初日に社長からいい教えを聞いた。
1 なるべく作業着は汚すな。いい職人は汚さない。汚いと他から舐められる。
だからだらしなく土の上にベタっと座るな。
2 仕事は両手を使え。
3 誰かが目の前で作業していたら、必ず手を出して手伝え。
4 車のドアは静かに閉めろ。騒音にうるさい住宅街は当然。普段からもやって癖にしていないとダメ。
これは現場系じゃないバイト先や職場に行っても役に立った。それ以外は常識外れのキ○ガイじみた社長だったがこれは素晴らしかった。今でも役に立っている。
それがこの数日、近隣で夜中に工事が行われていて、その工事車両のドア音がうるさいうるさい。あの社長を送り込みたい。
ポッド許可局の三人が「花束みたいな恋をした」と言う映画の感想を言い合っていた。
映画は文系サブカル的な趣味が合い同棲生活を始めたカップルの始まりから終わりまでらしい。
それぞれが映画に現れる固有名詞にやられたという。有名なアニメ監督や、好きな音楽など。
どうもそう言うアイテムで刺激を受ける映画のようだ。
三人がの会話の中でプチ鹿島が言った「無人島だと思っていたら仲間に出会えた経験」と言う感覚に胸を打たれた。
誰にもわかってもらえないような自分の好きなものの話をわかってくれる人がいた時の喜び。
男女に関わらず、語り合える友人を得ると言うのは生涯の喜びだ。鹿島は自分にとってはとして、この番組のマキタスポーツとサンキュータツオの二人をさりげなく上げる。
自分にも昔はそう言う得難い仲間がいたのでけど諸事情でバラバラになった。長年、仲のいい許可局の三人が羨ましい。
今は話の通じる友人がいない代わりに許可局の放送を友達の会話のようにを聞いている。これからも末長く放送を続けて欲しい。
抗寄生虫薬としてイベルメクチンが広くいきわたっているアフリカでは、意外にもコロナが拡大していない。予防薬としても期待できる。
実際世界16か国でコロナに対して使用されている。
しかし現在日本ではイベルメクチンをコロナに対して使うには、本来の目的外で利用するしかなく、医者個人の責任となってしまうので、積極的に使いづらい。
またイベルメクチンは高価なレムデシビルと比べて薬価が安く、高い収益が望めない。そのため臨床実験が進まない。
北里大学で臨床実験をしているが、Amedからの資金4億円ではとても足りない。30-40億は必要。そうすると様々な協力を得られて実験も早く進む。
海外の実験と連携する必要もある。
海外の臨床結果にもいろいろあり、悪い結果の物がなぜかメディアで取り上げられがちだが、内容を見るとチグハグで有効な論文ではない可能性高い。
逆に発展途上国での論文できちんとした内容の好結果の物もあるが、なぜかこれは取り上げられない。
マキタスポーツの十代の娘二人は何かというとキモいの連呼。何をしてもキモいといわれてしまうマキタ。カメラのファインダーから目を外し、娘たちが可愛いなあという思いで見るとキモイと言われてしまう。
その反対はカワイイらしい。老眼鏡を頭に載せてテレビを見ていたら、今度はカワイイと言われた。娘たちは毎日キモイとカワイイをさえずっている。
かつて批評性のある笑いを求め、談志・たけし・爆笑問題・浅草キッドに影響を受けていたころ、ネプチューンの笑いでウケている妻が理解できなかった。
感覚で生きている娘たちに対して、論理を突き詰めたいマキタは、そのせいで失った感性があるのかもしれないと危惧を抱く。キモイ/カワイイ感覚を取り入れていこうと考え始めた。
プチ鹿島曰く、我々にとっての「キモイ」はウエスタンラリアットのように強力だが、彼女たちにとってはそこまで重い意味はないのかも。キモイ、とオジサンが言ってしまうとネガティブすぎるので「カワイイ活動」をしていった方がいい。まだ娘が小さいので、今を大切にしたい。
サンキュータツオが言うにはマキタはオジサンの中では、かなりカワイイほうだ。頑張っている。「キモイ」は、男にとっての「うるせぇな」に近い気がする。キモイもカワイイも、主導権の主張なのではないか。売れてる人ってカワイイ。
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25歳だったコーナーの女性リスナーからのメール。
何者かになりたい、成し遂げたいという空回りの日々。
しかし勢いで結婚し、25歳で女の子を産むと一変。
何度も心が折れかけたが、いつの間にか何者かになりたいという欲求がなくなった。
何物でもない自分を求めてくれる赤ちゃんのおかげ。
生きていくのが楽になった。
25歳で子供を産んだのが一番のターニングポイント。
マキタ「子供が親にしてくれるんだ」
タツオ「あんた子供が生まれた時、バンド組んだろ」
鹿島「いい”老害”でました」
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牛乳パックの開け方。
牛乳パックの正しい開け方を知らず、はじめて説明書き通りに開けたらこんなに簡単なんだと感動したというメール。
マキタは、高校まで家族全員力づくで開けていた。東京出てきてから始めてやったかも。
鹿島は、今日初めて正しい開け方を知った。「初めて見た」。
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静岡のおじがシラスをくれて、おすすめの食べ方を教えてくれた。
刻んだニンニクとシラスをごま油でいためてしょう油で味付け。
水分が飛ぶまで火にかける。
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今週も楽しい話、いいハナシが聞けた! 許可局有難う。時間が変わっても聴き続けます。同世代のこの三人と一緒に歳をとっていける幸せ。
マキタスポーツの十代の娘二人は何かというとキモいの連呼。何をしてもキモいといわれてしまうマキタ。カメラのファインダーから目を外し、娘たちが可愛いなあという思いで見るとキモイと言われてしまう。
その反対はカワイイらしい。老眼鏡を頭に載せてテレビを見ていたら、今度はカワイイと言われた。娘たちは毎日キモイとカワイイをさえずっている。
感覚で生きている娘たちに対して、論理を突き詰めたいマキタは、そのせいで失った感性があるのかもしれないと危惧を抱く。
プチ鹿島曰く、我々にとっての「キモイ」はウエスタンラリアットのように強力だが、彼女たちにとってはそこまで重い意味はないのかも。
サンキュータツオはマキタはオジサンの中では、かなりカワイイほうだ。
昔は料亭政治と言われ政治家が揶揄されたので、最近は皆遠慮しているのか政治家が料亭に出入りする話を聞かなくなった。聞かないだけかもしれないけど。
そのせいかここのところは官僚の会食接待のニュースの方がにぎやかだ。
官僚がいくら不祥事や違反を起こしても、名前と顔がほとんど表に出てこないので、実質やり放題に見える。
権力があるから接待を受けるわけで、それでいて私人だからさほど深く追及されるわけでもない。退職でもしたら私人のカーテンに阻まれ、その後の待遇なども分からない。
ある程度の高級官僚はもう私人ではなく完全な公人としたらどうだろう。それが嫌なら退けばいいと思う。